前編から続く
《後編》
◇演繹的完全性と多元的演繹モデルの不完全性
論理学者でもあったパースは帰納法という用語をあえて避けている。つまり、帰納法は理不尽な自然数モデルを使った論理形式と言うことに気づいたからだと思われる。
コンピューターというのは典型的な演繹計算モデルと言える。方程式は演繹モデルを数式として集約したものだし、アルゴリズムもそうだ、つまり完全性とは演繹体系の完全性を指している。また、不完全性も同じく演繹的数学モデルの限界を示している。
ここで言う完全性を計算可能性と捉えるなら「計算可能な関数とは帰納的関数である」 と主張したチャーチ・チューリングの提唱は自然数にとらわれているのかも知れない。やはり「計算可能な関数とは演繹的関数である」となるのだ。これ以上の議論はアブダクションのところで見たとおりである。
(アブダクションについてはこちらを参照してください)
3-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory
3-8、準直感と準粒子型量子コンピューター
従ってユークリッド空間モデルとリーマン空間モデルも演繹的な構造を持つけれど、一般的には帰納的に生成された数学モデルと言うことになっている。しかし、ポアンカレのテーゼにあるように、それは直感的なアブダクションから演繹的に形成されたものであり、「演繹的完全性」と「数学モデルの不完全性」を合わせ持つのだ。
(ポアンカレのテーゼとは、「自然数論のペアノの公理を認めるなら数学的帰納法は演繹でなければならない」、更に「数学が演繹でないなら、なぜ正しい結果が 得られるのか?数学が演繹なら、なぜ新しい 一般化された命題が得られるのか?」これらに対する答えはパースが出している。)
私が異様だというのは、自然数が全く自然ではないと言うところなのだ。恐らく算術的数という意味では自然数=算術的数学モデルという関係の中にこそその本性があるのであろう。従って、算術が自然であるはずはない、人工若しくは技術的と言うべき算術的数モデルが自然数である。
◇計算や証明は物理プロセス(D ドイチ)
私がこだわっているのは、算術は数を利用している『技術』であって、数を生み出してはいないことがはっきりとしてきたからだ。更に、帰納法は自然数を基礎に新たな命題を生み出す生成原理であるとこれまで見なされてきたことへの反論をしなければならないからなのだ。
一方で、帰納法は空間を精密化する『技術』としてなら十分に実用的だといえる。数学的モデルである位相空間を精密化すると言う目的になら機能している。これもまた、ソロバンの算術的完全性という実用性と同じことになる。このことは帰納法の技術的な重要性が何処にあるかを示している。
例えば、帰納的順序集合というものがあるそうだ。位相空間の構成技術としてはうまく行く。そうであっても、ポアンカレは数学的帰納法というのはおかしいと言っているのです。ポアンカレの言いたいことは、技法としてはいいけれど論理として見るのは違っているんじゃないかという意味だと思います。
ゲーデルの不完全性定理は「技術的な算術的数学モデル」を使って証明されたものなのです。ゲーデルは算術的技術を駆使して「演繹の完全性」を第1定理として示し、続いて「数学モデルの不完全性」を第2定理として示した、と私は見ています。(これは私の解釈ですから原論文の構成とは全く関係はありませんが)
このように解釈すれば、帰納法が上手く行く(技術的)場面がどのようなものであるか、と言うことをゲーデルは多元的世界における精密技術として明示していると思います。
既に述べたようにフーリエ級数を解析関数として使うときに現れた矛盾には暗黙の内に『無限』が繰り込まれている。つまり数学的帰納法というのは無限を上手に使いこなす技法なのだと言えるのです。
数学モデルには言語が含まれます、従って或る全ての言語が不完全であるというのは直感的に理解しやすいのです。自然数は完全であっても、そのモデルは不完全であるというのは、こうした日常経験の中でも受け入れ易いことだと思います。基礎論の専門家も述語論理として数学モデルを作るようになっています。
Kamu Number Theoryでは、物性遷移から生成された数という見方を徹底して示しているのです。つまり、数は人間によって物性を抽象的に捉えたものであり自然の中に、或いは先天的に数というものが既にそこに在るのではない。これを、D ドイチは明確に「計算や証明は物理プロセス」と主張している。
例えば、分配関数がある物性Aから他の物性Bへ遷移する物理プロセスを示したときに、A → B という順番を付けることが可能になる、順序の前後に人間の抽象力で「物性Nの名称 → 数」を付与すれば自然数は完結する。
ただし、これにはペンローズのところで記したように「物理物性的な始元」が設定される事が肝心なのだ! 一見して「始元ゼロ」と思わせるような単位元の定義におけるように、利便的で技術的なものとして始元を〈単位元0〉と決めつけてはならない。
さらに、恣意的な順序ではなく分配関数による「物理プロセス」という裏付けが欠けてはならないのだ。数は空想や想像からは生まれない、数は物理から、あるいは生活や実験のなかの直観から生まれるのだということの深い意味がここにある!
こうして生まれた数を生活の中で1つの『技術 → 演算 → 計算』として実用的に使うことは何ら問題は無いのだ。しっかりしておかなければならないことは、数学モデルを『物理モデル → 蹴飛ばす技術 → コンストラクター → 計算と行動』の技術として使って居るということだ。
(その2)- 2.時空互換重合量子とペレルマンのエントロピー
(その3)- 2 万物のエントロピー増大、故に万物には始元が存在する
(その3)- 4,生命のロバストネスと情報熱力学
◇自然数の呪縛 ─ ゼノンのパラドックス ─
人類学者の山口昌哉が「数学は事(コト)=抽象的事象についての学問である」と言った。D ドイチはここでも明快に「ゼノンはこう思い込んだ、(事の)数学的無限が、(物の)物理的事象の無限を的確に捉えていると思いこんだ、ゼノンの誤りはただそれだけのことに起因する」。ゼノンのパラドックスとして有名なこの話のネタはやはり ” 自然数の呪縛 ” だったのだ。
順序数というように簡単に順序を抽象化することをしてはならない、順序には抽象化出来ない「(物の)物理プロセス」が内在している、従って物理プロセスを無視して順序を設定した(事の)数学的抽象モデルは不完全なのだ。
ここでD ドイチの議論は「(事の)数学的順序無限 → 帰納的に生成される順序無限 → 技術的順序と無限」として理解すると解りやすい。
自然数という概念がいろいろと問題を抱えている源泉は、どっちが先かという単純な問題にある。つまりD ドイチの指摘したとおり、物理的プロセスから数が生成されたのだ。だから自然の中に数があった、すでにソコに数はあった、ということではないのだ。
自然数の呪縛はピタゴラスやプラトンにも、と言うより西欧文化全般に及んで居るとことがこうした例から知ることが出来ると思います。
◇物理モデルが数学モデルを生成する、故にゲーデルの不完全性定理がある
このことが数学モデルとして生まれたと一般的に言われるチューリングマシンは、じつは物理的構造体である計算機の概念設計スキームとして生まれたのだ。チューリングが数学者だったために誤解を招いているのだろう。
そして、大事なことは数学モデルと言われるユークリッド空間、リーマン空間(ガウス空間)、ヒルベルト空間なども物理的物差しに基づいた物モデルから抽象されたものなのだ。けっして数学モデルが先にあったわけではない。
いま、リーマン空間にガウス空間と注釈を与えたのは、ガウスの実験物理学的行動を想起して頂ければ十分納得頂けることであろう。リーマンはガウスの後継者だったのだのだから尚更であろう。
ゲーデルの不完全性定理はあくまでも数学モデルについてだけ成り立つものだ。しがって、物理モデルによって刷新され、改訂されてしまうのだ。じつは、この刷新するものの影に生命のロバストネスがある事をペンローズは直感した。これこそ、行き詰まり打開の生命力というものだ。
Kamu Number Theoryでは、どのように数が生成されるかを見ておきたいと思う。まず、物性世界があり、そこから「数」が生まれるまでに実に長い遷移過程が、その間の物性的重合反応は数兆回から数十兆回を実に8回繰り返した後にはじめて数と呼べるものを見出すことが出来るのである。
しかも、この数というものはその段階では物性であって数と呼ぶには人間の抽象力を加えなければ「数」ではなかったのだ。従って、最初に生まれた数は当然のこと”ピタゴラス自然数ではない”のだ。少し丁寧にいえば、「数とは人工的に物性を抽象して作られた〈モノ=コト〉の名称」なのだ。
ここまで来れば、あとはどんな数が最初に現れたか?、、なのだ。もちろん 「自然数 1 」ではない!
◇数学モデルの強靱性は虚数にあり
楢崎皐月はこうして物理的に生まれた数を『天然数』と呼ぶべきだと主張した。そして、最初の天然数は「虚数」だったのである。Kamu Number Theoryでは宇野多美恵によって「small-Hi」と名付けられたものがこの虚数なのだった。
この”Small Hi”から複素数の形をした数が発生する。Kamu Number Theoryではこの複素数を「Ur-Form」と呼んでいる。こうして、長い遷移過程を経て、ようやく問題になっている自然数の「1」が生まれ出てくるのだ。
そして、Kamu Number Theoryから解ることだが「複素整数 → 代数的整数」こそ楢崎の「天然数 ← 超自然数」に近いものだと言うことになる。驚くことに、ガウスはお見通しだったようではないか!代数的整数の創始者はガウスなのだ。
この視点から自然数を見れば、その異様な光景がハッキリと見えてくるはずだ、虚数こそ自然なものであって、ピタゴラス自然数はやはり算術数モデルとしか呼べない、極めて技術的なものだったのである。
グロタンディークの数学改革の意味がこうして明らかになったと思う。彼は数を代数幾何学的スキームとして抽象的に再構成しようとし、自然数から独立したイデアルな虚数に基づく複素数によって、当時幾何学と代数学に分裂していた数学の統合を意図したのだ。
この流れは谷山豊などを通してラングランズプログラムへと進み、さらに黒川信重の絶対数学へと進んできた改革には、正当な理由があったことになる。
現代数学はどうやら自然数の呪縛を吹っ切って、全面的に一新し再構築を進めている一方、数理物理の躍進は目を見張るものがあるのではないかと素人ながら思う。
最初に見た、「数学の理不尽なまでの有効性」の10項目にみるウイグナーの言葉は、案の定「複素数」の存在をターゲットとしたものだった。数学的虚構と思われてきた不自然な複素数こそ自然数でなければならないことがこうして明らかになったのだ。
◇量子演算とは虚数演算のことだ
D ドイチは1997年の”世界の究極理論は存在するか”の中で、「これは古典コンピューターのビットという考え方は元々量子力学的な離散的な量子という思想に基づいている、ということで、全てのコンピューターは、もともと量子力学的な存在だった。」
だから「暗黙裏に想定されていた古典物理学の代わりに、根抵にある物理を量子力学に定義し直し、チューリングの証明の構成をなぞること」で量子チューリングマシンの存在を証明できた、と述べている。
そこで、量子演算は「古典的なチューリングマシンの〈実数=ユークリッド空間と相似〉的な内部状態が〈ヒルベルト空間=複素ベクトル空間モデル〉の状態に置き換えられる」ような ” 複素数計算の場 ” で行われる、と言うことになる。手短に、量子演算とは虚数世界の演算なのだ。
チューリングマシンは計算のスキームモデルとして量子物理的なシェイプアップを果たした、この革新を進めたのが D ドイチなのだ。
† † † † †
次回は
(その4)万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター
4 - 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
になります
---------------
量子コンピューターという思想(その4)
万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター
(その4)- 1, 数学モデルの理不尽なまでの有効性
(その4)- 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
(その4)- 3, ドイチの平行多宇宙と正反対称歪性平行宇宙
(その4)- 4, ペンローズのユニタリー実在批判に答えるには
†
(その4)- 5, 万物の理論とバベルの塔(専門家と素人)
(その4)- 6, 量子代替平行演算型プログラム図象言語へ
(その4)- 7, 準粒子コンストラクターと逆進化 ─ 進化の脱皮 ─
(その4)- 8, 万物は情報である─ 準直観を持つ準粒子系 ─
Kamu Number Theory
https://kamu-number.com/
copyrght © 2020 masaki yoshino
《後編》
◇演繹的完全性と多元的演繹モデルの不完全性
論理学者でもあったパースは帰納法という用語をあえて避けている。つまり、帰納法は理不尽な自然数モデルを使った論理形式と言うことに気づいたからだと思われる。
コンピューターというのは典型的な演繹計算モデルと言える。方程式は演繹モデルを数式として集約したものだし、アルゴリズムもそうだ、つまり完全性とは演繹体系の完全性を指している。また、不完全性も同じく演繹的数学モデルの限界を示している。
ここで言う完全性を計算可能性と捉えるなら「計算可能な関数とは帰納的関数である」 と主張したチャーチ・チューリングの提唱は自然数にとらわれているのかも知れない。やはり「計算可能な関数とは演繹的関数である」となるのだ。これ以上の議論はアブダクションのところで見たとおりである。
(アブダクションについてはこちらを参照してください)
3-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory
3-8、準直感と準粒子型量子コンピューター
従ってユークリッド空間モデルとリーマン空間モデルも演繹的な構造を持つけれど、一般的には帰納的に生成された数学モデルと言うことになっている。しかし、ポアンカレのテーゼにあるように、それは直感的なアブダクションから演繹的に形成されたものであり、「演繹的完全性」と「数学モデルの不完全性」を合わせ持つのだ。
(ポアンカレのテーゼとは、「自然数論のペアノの公理を認めるなら数学的帰納法は演繹でなければならない」、更に「数学が演繹でないなら、なぜ正しい結果が 得られるのか?数学が演繹なら、なぜ新しい 一般化された命題が得られるのか?」これらに対する答えはパースが出している。)
私が異様だというのは、自然数が全く自然ではないと言うところなのだ。恐らく算術的数という意味では自然数=算術的数学モデルという関係の中にこそその本性があるのであろう。従って、算術が自然であるはずはない、人工若しくは技術的と言うべき算術的数モデルが自然数である。
◇計算や証明は物理プロセス(D ドイチ)
私がこだわっているのは、算術は数を利用している『技術』であって、数を生み出してはいないことがはっきりとしてきたからだ。更に、帰納法は自然数を基礎に新たな命題を生み出す生成原理であるとこれまで見なされてきたことへの反論をしなければならないからなのだ。
一方で、帰納法は空間を精密化する『技術』としてなら十分に実用的だといえる。数学的モデルである位相空間を精密化すると言う目的になら機能している。これもまた、ソロバンの算術的完全性という実用性と同じことになる。このことは帰納法の技術的な重要性が何処にあるかを示している。
例えば、帰納的順序集合というものがあるそうだ。位相空間の構成技術としてはうまく行く。そうであっても、ポアンカレは数学的帰納法というのはおかしいと言っているのです。ポアンカレの言いたいことは、技法としてはいいけれど論理として見るのは違っているんじゃないかという意味だと思います。
ゲーデルの不完全性定理は「技術的な算術的数学モデル」を使って証明されたものなのです。ゲーデルは算術的技術を駆使して「演繹の完全性」を第1定理として示し、続いて「数学モデルの不完全性」を第2定理として示した、と私は見ています。(これは私の解釈ですから原論文の構成とは全く関係はありませんが)
このように解釈すれば、帰納法が上手く行く(技術的)場面がどのようなものであるか、と言うことをゲーデルは多元的世界における精密技術として明示していると思います。
既に述べたようにフーリエ級数を解析関数として使うときに現れた矛盾には暗黙の内に『無限』が繰り込まれている。つまり数学的帰納法というのは無限を上手に使いこなす技法なのだと言えるのです。
数学モデルには言語が含まれます、従って或る全ての言語が不完全であるというのは直感的に理解しやすいのです。自然数は完全であっても、そのモデルは不完全であるというのは、こうした日常経験の中でも受け入れ易いことだと思います。基礎論の専門家も述語論理として数学モデルを作るようになっています。
Kamu Number Theoryでは、物性遷移から生成された数という見方を徹底して示しているのです。つまり、数は人間によって物性を抽象的に捉えたものであり自然の中に、或いは先天的に数というものが既にそこに在るのではない。これを、D ドイチは明確に「計算や証明は物理プロセス」と主張している。
例えば、分配関数がある物性Aから他の物性Bへ遷移する物理プロセスを示したときに、A → B という順番を付けることが可能になる、順序の前後に人間の抽象力で「物性Nの名称 → 数」を付与すれば自然数は完結する。
ただし、これにはペンローズのところで記したように「物理物性的な始元」が設定される事が肝心なのだ! 一見して「始元ゼロ」と思わせるような単位元の定義におけるように、利便的で技術的なものとして始元を〈単位元0〉と決めつけてはならない。
さらに、恣意的な順序ではなく分配関数による「物理プロセス」という裏付けが欠けてはならないのだ。数は空想や想像からは生まれない、数は物理から、あるいは生活や実験のなかの直観から生まれるのだということの深い意味がここにある!
こうして生まれた数を生活の中で1つの『技術 → 演算 → 計算』として実用的に使うことは何ら問題は無いのだ。しっかりしておかなければならないことは、数学モデルを『物理モデル → 蹴飛ばす技術 → コンストラクター → 計算と行動』の技術として使って居るということだ。
(その2)- 2.時空互換重合量子とペレルマンのエントロピー
(その3)- 2 万物のエントロピー増大、故に万物には始元が存在する
(その3)- 4,生命のロバストネスと情報熱力学
◇自然数の呪縛 ─ ゼノンのパラドックス ─
人類学者の山口昌哉が「数学は事(コト)=抽象的事象についての学問である」と言った。D ドイチはここでも明快に「ゼノンはこう思い込んだ、(事の)数学的無限が、(物の)物理的事象の無限を的確に捉えていると思いこんだ、ゼノンの誤りはただそれだけのことに起因する」。ゼノンのパラドックスとして有名なこの話のネタはやはり ” 自然数の呪縛 ” だったのだ。
順序数というように簡単に順序を抽象化することをしてはならない、順序には抽象化出来ない「(物の)物理プロセス」が内在している、従って物理プロセスを無視して順序を設定した(事の)数学的抽象モデルは不完全なのだ。
ここでD ドイチの議論は「(事の)数学的順序無限 → 帰納的に生成される順序無限 → 技術的順序と無限」として理解すると解りやすい。
自然数という概念がいろいろと問題を抱えている源泉は、どっちが先かという単純な問題にある。つまりD ドイチの指摘したとおり、物理的プロセスから数が生成されたのだ。だから自然の中に数があった、すでにソコに数はあった、ということではないのだ。
自然数の呪縛はピタゴラスやプラトンにも、と言うより西欧文化全般に及んで居るとことがこうした例から知ることが出来ると思います。
◇物理モデルが数学モデルを生成する、故にゲーデルの不完全性定理がある
このことが数学モデルとして生まれたと一般的に言われるチューリングマシンは、じつは物理的構造体である計算機の概念設計スキームとして生まれたのだ。チューリングが数学者だったために誤解を招いているのだろう。
そして、大事なことは数学モデルと言われるユークリッド空間、リーマン空間(ガウス空間)、ヒルベルト空間なども物理的物差しに基づいた物モデルから抽象されたものなのだ。けっして数学モデルが先にあったわけではない。
いま、リーマン空間にガウス空間と注釈を与えたのは、ガウスの実験物理学的行動を想起して頂ければ十分納得頂けることであろう。リーマンはガウスの後継者だったのだのだから尚更であろう。
ゲーデルの不完全性定理はあくまでも数学モデルについてだけ成り立つものだ。しがって、物理モデルによって刷新され、改訂されてしまうのだ。じつは、この刷新するものの影に生命のロバストネスがある事をペンローズは直感した。これこそ、行き詰まり打開の生命力というものだ。
Kamu Number Theoryでは、どのように数が生成されるかを見ておきたいと思う。まず、物性世界があり、そこから「数」が生まれるまでに実に長い遷移過程が、その間の物性的重合反応は数兆回から数十兆回を実に8回繰り返した後にはじめて数と呼べるものを見出すことが出来るのである。
しかも、この数というものはその段階では物性であって数と呼ぶには人間の抽象力を加えなければ「数」ではなかったのだ。従って、最初に生まれた数は当然のこと”ピタゴラス自然数ではない”のだ。少し丁寧にいえば、「数とは人工的に物性を抽象して作られた〈モノ=コト〉の名称」なのだ。
ここまで来れば、あとはどんな数が最初に現れたか?、、なのだ。もちろん 「自然数 1 」ではない!
◇数学モデルの強靱性は虚数にあり
楢崎皐月はこうして物理的に生まれた数を『天然数』と呼ぶべきだと主張した。そして、最初の天然数は「虚数」だったのである。Kamu Number Theoryでは宇野多美恵によって「small-Hi」と名付けられたものがこの虚数なのだった。
この”Small Hi”から複素数の形をした数が発生する。Kamu Number Theoryではこの複素数を「Ur-Form」と呼んでいる。こうして、長い遷移過程を経て、ようやく問題になっている自然数の「1」が生まれ出てくるのだ。
そして、Kamu Number Theoryから解ることだが「複素整数 → 代数的整数」こそ楢崎の「天然数 ← 超自然数」に近いものだと言うことになる。驚くことに、ガウスはお見通しだったようではないか!代数的整数の創始者はガウスなのだ。
この視点から自然数を見れば、その異様な光景がハッキリと見えてくるはずだ、虚数こそ自然なものであって、ピタゴラス自然数はやはり算術数モデルとしか呼べない、極めて技術的なものだったのである。
グロタンディークの数学改革の意味がこうして明らかになったと思う。彼は数を代数幾何学的スキームとして抽象的に再構成しようとし、自然数から独立したイデアルな虚数に基づく複素数によって、当時幾何学と代数学に分裂していた数学の統合を意図したのだ。
この流れは谷山豊などを通してラングランズプログラムへと進み、さらに黒川信重の絶対数学へと進んできた改革には、正当な理由があったことになる。
現代数学はどうやら自然数の呪縛を吹っ切って、全面的に一新し再構築を進めている一方、数理物理の躍進は目を見張るものがあるのではないかと素人ながら思う。
最初に見た、「数学の理不尽なまでの有効性」の10項目にみるウイグナーの言葉は、案の定「複素数」の存在をターゲットとしたものだった。数学的虚構と思われてきた不自然な複素数こそ自然数でなければならないことがこうして明らかになったのだ。
◇量子演算とは虚数演算のことだ
D ドイチは1997年の”世界の究極理論は存在するか”の中で、「これは古典コンピューターのビットという考え方は元々量子力学的な離散的な量子という思想に基づいている、ということで、全てのコンピューターは、もともと量子力学的な存在だった。」
だから「暗黙裏に想定されていた古典物理学の代わりに、根抵にある物理を量子力学に定義し直し、チューリングの証明の構成をなぞること」で量子チューリングマシンの存在を証明できた、と述べている。
そこで、量子演算は「古典的なチューリングマシンの〈実数=ユークリッド空間と相似〉的な内部状態が〈ヒルベルト空間=複素ベクトル空間モデル〉の状態に置き換えられる」ような ” 複素数計算の場 ” で行われる、と言うことになる。手短に、量子演算とは虚数世界の演算なのだ。
チューリングマシンは計算のスキームモデルとして量子物理的なシェイプアップを果たした、この革新を進めたのが D ドイチなのだ。
† † † † †
次回は
(その4)万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター
4 - 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
になります
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量子コンピューターという思想(その4)
万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター
(その4)- 1, 数学モデルの理不尽なまでの有効性
(その4)- 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
(その4)- 3, ドイチの平行多宇宙と正反対称歪性平行宇宙
(その4)- 4, ペンローズのユニタリー実在批判に答えるには
†
(その4)- 5, 万物の理論とバベルの塔(専門家と素人)
(その4)- 6, 量子代替平行演算型プログラム図象言語へ
(その4)- 7, 準粒子コンストラクターと逆進化 ─ 進化の脱皮 ─
(その4)- 8, 万物は情報である─ 準直観を持つ準粒子系 ─
Kamu Number Theory
https://kamu-number.com/
copyrght © 2020 masaki yoshino