「青木、お前ちゃんと送ってけよ。薪さんちまで責任もってな」
タクシーを呼び止めて、岡部が言う。
「俺……薪さんの家、知らないです」
当惑顔で青木が言った。
「俺だって知らんよ。番地はわかるが。
薪さんプライべート明かさないからな」
「ええ、じゃあどうやって家まで送ればいいんですか」
「俺はいつも最寄りの交差点ってとこで降ろしてる。言いつけでな。そっからは薪さんが1人で帰るよ」
「岡部さんにも教えないんじゃ、俺なんか絶対送り届けさせてもらえないですね」
青木がため息。
科学警察研究所所長・薪剛警視正は徹底して秘密主義。特に私的なことに関しては。
薪の部下なら誰でも知っていることだった。
仕事で上京してきた青木を、今夜岡部が誘った。
なかなか予約が取れない高級寿司店だったが、薪の名前を出すとすぐに席が取れた。
三人で久しぶりにじっくり酌み交わした。
薪が先につぶれるのは織り込み済み。酒は嗜むがあまり量は飲めない。
檜のカウンターに突っ伏して眠る薪を、「薪さん、行きますよ」と青木が丁重に抱え上げた。
長身の彼は、薪くらいの重さは意に介さない。
岡部が捕まえてくれたタクシーの後部座席に「よいしょ、と」に運び入れる。
「岡部さんはもう一軒行くんですか」
「そうだな。……そうするかな」
「今夜はありがとうございました。忙しい中誘ってくださって」
礼儀正しく頭を下げ、じゃあまた明日、と青木が薪の隣に乗り込もうとしたとき、
「青木」
と岡部が呼び止める。
「光のことは……その、残念だったな」
お悔やみを口にした。
光が病を得て、この世を去ってからはや三ヶ月が経とうとしていた。里親を務めた青木を、岡部は案じた。
薪は葬儀に駆けつけたが、自分は管区を離れられなかった。それを詫びた。
「いえ。その節はお香典をありがとうございました」
「お袋さんも変わりないか」
「はい。いっときひどく塞ぎましたが、今はもう元気です。舞も居ますし」
「そうか。大事にしろよ」
「はい」
穏やかに微笑む青木を見て、ふと岡部は心がざわついた。
「お前も、いつもにこにこしてないで、たまには愚痴れ。あーもうやってられないとか、聞いてくださいよとか、俺たちに会ったときぐらいは言っていいんぞ」
室長ともなると、腹を割って話せる相手も側にいなくなる。そのことは自分で一番よく分かっているからこそ青木が心配だった。
岡部は情に厚い。こういうところが信望を集める。本人は自覚がないのだろうが。
「言ってますよ。今夜もたくさん言わせてもらいました」
「お前の愚痴は舞ちゃんのことだけだったろうが。最近風呂に一緒に入ってくれなくなったとか、なんとかくんから意地悪されてるみたいだけど、あれって好きな子に意地悪する心理のやつですよねとか」
ああいうのは愚痴って言わねえんだよと苦る。
「それが、いま一番の懸案事項なんですよ」
きまじめに返す青木。
「ああいい。わかった。ほら早く乗れ。運ちゃんが待ちくたびれてるわ」
呆れたように岡部はその無骨なてのひらを振ってせかした。
「薪さんを頼んだぞ」と付け加えるのを忘れず。
青木は運転手に岡部から聞いた番地を告げる。水の上を滑るようにタクシーは夜の繁華街をするすると抜けていった。
青木はシートベルトをかちんと締めた。薪にも掛けないとと思って、後部シートにしんなりと身体を預ける彼にかがみ込む。
そこで、くす、とかすかな笑い声を聞いた。
見ると、薪が目を開けて青木を見ている。色素の薄い、大きな茶色の瞳。
まつげが嘘みたいに長い。見とれる。
「薪さん。起こしました?」
動揺して、シートベルトを掛ける手がぶれた。もたつく。
「岡部は相変わらず心配性だな。いつまで経ってもお前のことを新人みたいな部下だと思ってる」
薪は青木にベルトを嵌めさせるのをまかせる。
「どっちかというと、おかんが息子の心配をする図って感じですけど」
「……確かに」
含み笑いをしたまま、薪は視線を窓の外の東京の夜空に移した。
「ラジオかけたままでいいですか? お客さん」
バックミラー越しに、運転手が尋ねる。
深夜放送。パーソナリティーがトークのあいまに曲を流していく。
「構わない。このままで」
「ありがとうございます。好きでね。この番組」
めっきり良いラジオ番組も減ってねえ、と前を向いたまま彼は言った。
「……」
「なんだ」
「え」
「何か言いたそうな顔で見てるのはなんでだ」
薪が窓に反射した青木に向かって言う。
青木は赤くなった。
「いえ……。久しぶりだなあって思って。薪さんと、その」
2人になるのは。
正確に言えば運転手も一緒だが。
「……今日は久しぶりに良い具合に酔った。外では、一応コントロールするから」
「潰れてもいい。大丈夫なメンツだって思ってくれてるって、うぬぼれていいですか」
「調子に乗るな。お前なら僕を担ぐのも苦にしないからだ」
岡部もな、とガタイのいい2人を皮肉る。
「どこへだって、お供しますよ。薪さんなら」
青木は言った。真顔で。
「担いで行け、ついて来いというんならどこへでも。命令のままに」
「……」
ふ、と笑みを漏らす。
じゃあ。
「月まで」
「え」
「月まで行くか。一緒に」
窓の外には黄色い月が、夜空をくりぬいたように浮かんでいる。東京の街を高みから暢気に見下ろす。
星々を引き連れて。
青木はそれに目をとめ、ーーあ、と思い至る。
いま、タクシーの車内に流れている曲。
切ないメロディライン。どこかで聞いたことのある懐かしい調べ。
ーーFly Me To The Moon--
私を月まで連れてって
2人はしばらくその英語の歌に耳を傾けた。
やさしい沈黙とともに、身体をシートにゆだねながら。
ややあって、その曲が終わった。
「……青木」
薪が、彼を呼んだ。窓から視線を引きはがし、青木を見つめる。
身長差があるため、少しだけ薪が青木を見上げるかたちで。
「はい」
「今夜はホテル泊まりだったな。いつものところか」
「はい」
頷く。
「もうキャンセルは効かないな。チェックインして荷物、預けたんだろう」
「あ、ええ。ーーえ?」
青木の目が丸くなる。
薪は言った。
「今夜は僕の家に泊まれ。このまま」
「……」
口が、半開きのまま閉じない。
ぽかんと薪を見返す青木に、じれたように薪の柳眉が吊り上がった。
「返事は」
気圧されて、声がかすれる。
「は、はい」
ならいい。そう言ってまた視線を窓の外へ逃がす。
窓枠に、ほおづえを突きながら。少し、かたちのいい耳たぶが紅潮しているのが見て取れた。
青木の緊張が少しほどける。
「……薪さん、それって命令ですか。それともお願いですか」
思わず可愛いところを見せられて、青木は聞いてみたくなった。
俺を家にあげていいんですか。住所とか場所、知られますよ。
今の今まであんなに秘密にしていたプライヴェートなことを俺に教えていんですか。
「どっちでもいい。好きな方で」
ぞんざいに、薪は返した。
青木の顔に喜色がじんわり広がる。
「じゃあ、『お願い』で」
「……調子に乗ると、タクシーから投げ捨てるぞ」
声が氷点下になる。青木の体感温度があっというまに5度下がる。
「あっ嘘ですすみませんすみません」
投げないでください。本気でやりかねないんだからこの人は。
平身低頭、謝る。
美しい微笑を浮かべて、薪は青木を目線で掬い上げた。
「シートベルト、しっかり締めてろよ」
「はいっ」
青木は背筋を伸ばした。背が高いため、車の天井に頭がついたのが面白かった。
ーー私を月まで連れてって、か……。
薪は思う。
何もかもなげうって、抱え込んだ案件も、山積みの問題も、重大事件も、……心塞ぐ、胸えぐられるような残忍な事件も、何もかも放り棄てて、月までいけたらどんなにか楽になるだろう。
この男といっしょに。
口には出さず、薪は窓の外に固定された月を見つめた。
青木が、月を見上げる薪の横顔をしずかに見つめる。
その夜初めて、薪とその同乗者を乗せたタクシーが、彼の自宅前に停まった。
END
pixivだけでなく、こちらにもUP
薪さんが大好きです。青木さんを大事にする薪さんが好きなんだな。うん。
⇒pixiv安達 薫
タクシーを呼び止めて、岡部が言う。
「俺……薪さんの家、知らないです」
当惑顔で青木が言った。
「俺だって知らんよ。番地はわかるが。
薪さんプライべート明かさないからな」
「ええ、じゃあどうやって家まで送ればいいんですか」
「俺はいつも最寄りの交差点ってとこで降ろしてる。言いつけでな。そっからは薪さんが1人で帰るよ」
「岡部さんにも教えないんじゃ、俺なんか絶対送り届けさせてもらえないですね」
青木がため息。
科学警察研究所所長・薪剛警視正は徹底して秘密主義。特に私的なことに関しては。
薪の部下なら誰でも知っていることだった。
仕事で上京してきた青木を、今夜岡部が誘った。
なかなか予約が取れない高級寿司店だったが、薪の名前を出すとすぐに席が取れた。
三人で久しぶりにじっくり酌み交わした。
薪が先につぶれるのは織り込み済み。酒は嗜むがあまり量は飲めない。
檜のカウンターに突っ伏して眠る薪を、「薪さん、行きますよ」と青木が丁重に抱え上げた。
長身の彼は、薪くらいの重さは意に介さない。
岡部が捕まえてくれたタクシーの後部座席に「よいしょ、と」に運び入れる。
「岡部さんはもう一軒行くんですか」
「そうだな。……そうするかな」
「今夜はありがとうございました。忙しい中誘ってくださって」
礼儀正しく頭を下げ、じゃあまた明日、と青木が薪の隣に乗り込もうとしたとき、
「青木」
と岡部が呼び止める。
「光のことは……その、残念だったな」
お悔やみを口にした。
光が病を得て、この世を去ってからはや三ヶ月が経とうとしていた。里親を務めた青木を、岡部は案じた。
薪は葬儀に駆けつけたが、自分は管区を離れられなかった。それを詫びた。
「いえ。その節はお香典をありがとうございました」
「お袋さんも変わりないか」
「はい。いっときひどく塞ぎましたが、今はもう元気です。舞も居ますし」
「そうか。大事にしろよ」
「はい」
穏やかに微笑む青木を見て、ふと岡部は心がざわついた。
「お前も、いつもにこにこしてないで、たまには愚痴れ。あーもうやってられないとか、聞いてくださいよとか、俺たちに会ったときぐらいは言っていいんぞ」
室長ともなると、腹を割って話せる相手も側にいなくなる。そのことは自分で一番よく分かっているからこそ青木が心配だった。
岡部は情に厚い。こういうところが信望を集める。本人は自覚がないのだろうが。
「言ってますよ。今夜もたくさん言わせてもらいました」
「お前の愚痴は舞ちゃんのことだけだったろうが。最近風呂に一緒に入ってくれなくなったとか、なんとかくんから意地悪されてるみたいだけど、あれって好きな子に意地悪する心理のやつですよねとか」
ああいうのは愚痴って言わねえんだよと苦る。
「それが、いま一番の懸案事項なんですよ」
きまじめに返す青木。
「ああいい。わかった。ほら早く乗れ。運ちゃんが待ちくたびれてるわ」
呆れたように岡部はその無骨なてのひらを振ってせかした。
「薪さんを頼んだぞ」と付け加えるのを忘れず。
青木は運転手に岡部から聞いた番地を告げる。水の上を滑るようにタクシーは夜の繁華街をするすると抜けていった。
青木はシートベルトをかちんと締めた。薪にも掛けないとと思って、後部シートにしんなりと身体を預ける彼にかがみ込む。
そこで、くす、とかすかな笑い声を聞いた。
見ると、薪が目を開けて青木を見ている。色素の薄い、大きな茶色の瞳。
まつげが嘘みたいに長い。見とれる。
「薪さん。起こしました?」
動揺して、シートベルトを掛ける手がぶれた。もたつく。
「岡部は相変わらず心配性だな。いつまで経ってもお前のことを新人みたいな部下だと思ってる」
薪は青木にベルトを嵌めさせるのをまかせる。
「どっちかというと、おかんが息子の心配をする図って感じですけど」
「……確かに」
含み笑いをしたまま、薪は視線を窓の外の東京の夜空に移した。
「ラジオかけたままでいいですか? お客さん」
バックミラー越しに、運転手が尋ねる。
深夜放送。パーソナリティーがトークのあいまに曲を流していく。
「構わない。このままで」
「ありがとうございます。好きでね。この番組」
めっきり良いラジオ番組も減ってねえ、と前を向いたまま彼は言った。
「……」
「なんだ」
「え」
「何か言いたそうな顔で見てるのはなんでだ」
薪が窓に反射した青木に向かって言う。
青木は赤くなった。
「いえ……。久しぶりだなあって思って。薪さんと、その」
2人になるのは。
正確に言えば運転手も一緒だが。
「……今日は久しぶりに良い具合に酔った。外では、一応コントロールするから」
「潰れてもいい。大丈夫なメンツだって思ってくれてるって、うぬぼれていいですか」
「調子に乗るな。お前なら僕を担ぐのも苦にしないからだ」
岡部もな、とガタイのいい2人を皮肉る。
「どこへだって、お供しますよ。薪さんなら」
青木は言った。真顔で。
「担いで行け、ついて来いというんならどこへでも。命令のままに」
「……」
ふ、と笑みを漏らす。
じゃあ。
「月まで」
「え」
「月まで行くか。一緒に」
窓の外には黄色い月が、夜空をくりぬいたように浮かんでいる。東京の街を高みから暢気に見下ろす。
星々を引き連れて。
青木はそれに目をとめ、ーーあ、と思い至る。
いま、タクシーの車内に流れている曲。
切ないメロディライン。どこかで聞いたことのある懐かしい調べ。
ーーFly Me To The Moon--
私を月まで連れてって
2人はしばらくその英語の歌に耳を傾けた。
やさしい沈黙とともに、身体をシートにゆだねながら。
ややあって、その曲が終わった。
「……青木」
薪が、彼を呼んだ。窓から視線を引きはがし、青木を見つめる。
身長差があるため、少しだけ薪が青木を見上げるかたちで。
「はい」
「今夜はホテル泊まりだったな。いつものところか」
「はい」
頷く。
「もうキャンセルは効かないな。チェックインして荷物、預けたんだろう」
「あ、ええ。ーーえ?」
青木の目が丸くなる。
薪は言った。
「今夜は僕の家に泊まれ。このまま」
「……」
口が、半開きのまま閉じない。
ぽかんと薪を見返す青木に、じれたように薪の柳眉が吊り上がった。
「返事は」
気圧されて、声がかすれる。
「は、はい」
ならいい。そう言ってまた視線を窓の外へ逃がす。
窓枠に、ほおづえを突きながら。少し、かたちのいい耳たぶが紅潮しているのが見て取れた。
青木の緊張が少しほどける。
「……薪さん、それって命令ですか。それともお願いですか」
思わず可愛いところを見せられて、青木は聞いてみたくなった。
俺を家にあげていいんですか。住所とか場所、知られますよ。
今の今まであんなに秘密にしていたプライヴェートなことを俺に教えていんですか。
「どっちでもいい。好きな方で」
ぞんざいに、薪は返した。
青木の顔に喜色がじんわり広がる。
「じゃあ、『お願い』で」
「……調子に乗ると、タクシーから投げ捨てるぞ」
声が氷点下になる。青木の体感温度があっというまに5度下がる。
「あっ嘘ですすみませんすみません」
投げないでください。本気でやりかねないんだからこの人は。
平身低頭、謝る。
美しい微笑を浮かべて、薪は青木を目線で掬い上げた。
「シートベルト、しっかり締めてろよ」
「はいっ」
青木は背筋を伸ばした。背が高いため、車の天井に頭がついたのが面白かった。
ーー私を月まで連れてって、か……。
薪は思う。
何もかもなげうって、抱え込んだ案件も、山積みの問題も、重大事件も、……心塞ぐ、胸えぐられるような残忍な事件も、何もかも放り棄てて、月までいけたらどんなにか楽になるだろう。
この男といっしょに。
口には出さず、薪は窓の外に固定された月を見つめた。
青木が、月を見上げる薪の横顔をしずかに見つめる。
その夜初めて、薪とその同乗者を乗せたタクシーが、彼の自宅前に停まった。
END
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薪さんが大好きです。青木さんを大事にする薪さんが好きなんだな。うん。
⇒pixiv安達 薫