心の平和は、許しを実行できた時にだけ得られます。許しとは過去を手離すことであり、過去の誤解を解きほどく方法なのです。 ジェラルド・ジャンポルスキー
最近、炊飯器をIHにしたのですが、以前のマイコン型の炊飯器で炊いていたやり方では通用しませんでした。というのも以前は水分量が多くなってもちゃんと炊けていたし、1日以上保温なしでもだいじょうぶだったのに、今は全然1日ももちません。やり方が悪いと思ったので検索してみました。
最初に「炊飯器 IH まずい」で検索したら→「お米 おいしい 炊き方」にした方がいいことに気付きこれで検索すると、今までとはやり方がまったく違うやり方をしていました。やはり以前のやり方にこだわっていると失敗しますな。
ガスによる土鍋で炊くのも電磁波の影響も気にせずもっとおいしいごはんが食べられそうです。IH炊飯器は電磁波の影響が心配だったのですが、あんまり気にし過ぎているのも余計にからだに悪いと思ったので気にせずおいしく食べられるような工夫と「感謝」で食べるように努力することを考えます
人はなんでもこれが悪い、これが悪いんだ!という断定があるとどうしてもそれを良く見ることができなくなります。どうして悪いのか?ということの理論を聞くと余計に悪くなり、それを見ては腹が立つばかりです。決めつけず良くなる方法を考える。
悪い良いという決めつけが問題を深めていることを少しずつ理解できるようになりました。決めつけないことを努力していこうと思います。また以前のやり方では通用しないので、今に合わせるやり方または新しいやり方を探すとか自分の落ち着く方法を探すのも楽しいと思っています。
ごはんを洗うときにもよそるときにもおしつけるようにごはんに接するより、愛情をもってやさしく接するほうが、おいしくなるのはもしかすると真実かもしれません。人間でも同じもの。気のせいかどうかはそのやり方で食べてから1週間の流れを調べるしかありませんね。客観的に分析しよう。物と思わない
無機質なものに魂はなく生命はないと思うことが大きな損をしていると思わずにはいられない。無機質だけれども、人間はその無機質に有機的な魂や生命を吹き込むことができると私は信じています。どっかの本にも書いてありました。生命でもおいしくなるまで育てる行為は人間の真実であります。
待つことについて。待っている時間は無駄な時間として考えてしまいます。待っている間にできることがあると考えますが、待っている時間を無駄な時間と考えてはなりませぬ。目的に向かっていくうちに経過する待つ時間は成長の時間であり、真心となります。
人気店のおいしい料理を食べるまでに、皆が並んでいます。その列に並び待ち続ける。待っている間においしい料理を想像をしてわくわくが止まらない状態。その待つ時間を大切にします。人間から待つ時間を奪ったら人間は堕落するでしょう。思ったことがすぐに結果になってしまったら成長が止まるでしょう
インターネットのようにボタンを押せば買い物ができて、すぐに配達してくれるので、いちいち買い物に出掛ける必要もなく、大きな荷物などを運ぶための車も必要ない。便利な生活は便利すぎるがゆえにボタンひとつですべてが変わると簡単に考えてしまう。突拍子もない行動に走りがちになるかもしれない
すぐに結果だけが来た場合、物事には順序があることを忘れてしまうようになるかもしれない。ひとつひとつ不便な体験をすることに意味があるということを忘れてしまうかもしれない。そこにいくまでの苦労、手に入れるための努力をしなくなるかもしれない。待つということにいらだちを募らせるだろう。
人生の最高の楽しみとは危険の要素の強いものだろうと思う。それはスリル。冒険的なものは発見することが有意義なことである。人生にもそれはあてはまるかもしれない。実は危ない橋を渡ることのリスクを超えるように肉体は与えられたのだろうか。