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人の中にはすべてがある。求めよ、されば与えられん
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私という世界でたった一つの物語

厄について(まとめ)

2015-11-11 | 日記

 

厄というものは時間・方向・環境・言葉・思考・自他の行動などによって蓄積されていくもの。

 

その厄が蓄積されてあるポイント(転換点)に放出する。

放出というのは軽いものなどの場合には風邪などで少しずつクリアーにしていく。

 

汚い部屋、汚い言動、汚い行為などによって厄を積みやすくなる。

その反対もあります。良い人と接しているうちにその影響を受けますから。

 

私のひどい記憶でこんなことがあった。

なんかイライラするなーとかっていた友人が「ここに立ってくれ」と言われゲームセンターのパンチングマシーンの前に私が立つと、そこで機械が写真を撮り始めた。

何事だろうと思っていると、友人がパンチングマシーンの前でグローブをはめて殴り始めたのだ。

そのマシーンにうつる私の顔がみるみるうちに歪んでいく。それをみてゲラゲラ笑いスッキリするなどと抜かしているのである。

今考えれば悪霊の意のままに動かされてる哀れなやつと思うだけであるが。

表面上はいいやつなのだが、内面は根暗で陰湿な部分がある。

その彼はガンの家系であることを以前に告白しています。そういう因果のある家系はパワーも強いけれども、対抗する悪霊も強いので、悪的な要素が強くなるとかなり陰湿になることがあるでしょう。 浄化力があれば攻撃性は抑えることができます。

まー悪いやつではないのでゆるしましたが。

そのときは当然腹を立てたが、こういうことはたまに思い出しても腹の立つことだが、やった当人は忘れているものです。

生霊的な自分の発する念というものは管理的な扱いが難しいので、人にしたことやされたことを強く覚えていて、ときどき出してしまうこともあるのです。

下の画像にあるように、さまざまな要素によってダークなエネルギーがオーラに付着して、なんとなく気分が悪くなったり落ち込んだりして、おかしな状況に追い込まれていく。

すべては因果応報による結果です。

 

ダークオーラ

 

人の人生を左右するほどの生霊を出すひとは少ないようですが、自分の命を掛けて発する念というものもあると聞きます。

 

関わっている(今)ときだけが、すべてではありません。

関わっていなくても(見えない世界)、時間軸は関係なく作用するものです。

 

もっとひどいやつならば集団で陰湿なイジメをするので、こういうイジメのようなことは汚れとして他人からのマイナスの念などが付着します。マイナスにはマイナスがさらに集まる習性があるので、さらに厄が付きやすくなることでしょう。

世にいう因果応報というものです。

ほんとうに悪い奴はなかなか厄が返ってこないもので、ダークな色であればあるほどに、厄を感じないか跳ね返しているようです。罪悪感がなければ自分を裁こうとはしませんからね。

それでも必ず最後には裁かれます。いかにしても自分のしたことを決して隠すことはできないのです。すべては自分の魂に記憶されています。

因果ある関係のすべての情報は影響されます。

 

色が薄ければ(善的な要素を積んだひと)薄いほど、染まりやすくはなりますし、何かをするとすぐに返ってくる場合があります。

 

ほんとうに悪い奴の厄が返ってくる転換点というのは弱っているときであることは間違いない。

それはどんなドラマやアニメでもあるようにです。

 

自分でやった行いはけっきょく自分で刈り取らなければならない。

子供への教育ならまず最初に教えるべきなのはここです。

だからといって絶対に間違えないように縮こまっているというわけではなく、どんどん間違って失敗して経験を増やすことが大切なようです。人間は間違って学ぶいきものであるからです。

責任はすべて自分にあるが、どのような生き方をしても自由であるということです。

 

現世からの問題だけではなく、過去世でしてきたこともです。

昔から今まで繋がっています。つながっているというのは「魂」が今までのものを蓄積しているということです。

 

関わってきた人生ドラマで選択してきたこと、すべての感じたもの、ありとあらゆる記憶です。

 

悪役をすることも善役をすることも。

 

今世はレベルがインターネットのお陰なのか分からないが、上昇しているようです。

 

人の魂は強く「成長」を望むようになってきているのでしょうか。

 

どこでも何かをすることができる時代です。

 

過去からの悪い選択が重なっていると感じたならば善いことをしていく。

悪い人間でさえ生かされていることが神への感謝とし、受けた恩を還元する。

 

その誓いを立てるならば今世は情状酌量の余地があることでしょう。

 

なぜ人間に厄というものがあるのかというと、それは間違った選択(宇宙の理にかなわない)をしたということを理解させるためなのです。

 

風邪をひいたときに、わたしたちはすぐに窓を開けて体が冷えたからではないか?とか誰かにうつされたから?などと原因を考えるのですが、それと同じように振り返らせて、原因を究明させる効果があります。

 

反省・気づきによる進歩を期待されてという神からの恩寵なのかもしれません。

 

ほんらいは厄こそありがたいものであると感謝できるようになればすべてがありがたくなります。

そこまでいくのはかなり魂のレベルを上げていかないと厳しいですね。

私もそういう自分をいつの日にか目指していけたらと思っています。

 

悪いことが帰ってきて、災いを経験して自分の内側を観ようとします。

そのときに大きなヒントがやってくる。

そして苦しい経験から他者への慈悲が生まれてきます。

それが「究極の優しさ」です。

 

神仏の世界はそういう優しさで満ちているように感じるのです。

確かにメルヘンチックな幻想であふれているともいえますが、やさしさのない世界は悪意で満ちるだけですから、多少幻想的でもいいのではないかと思うのです。

 

神仏に愛された人というのはすべての苦悩を感じ尽くしたからこそ、人の苦悩のすべてが観えるのだと思います。

 

人間世界でもありとあらゆることをやってみたいという欲望があります。

 

ありとあらゆることをした人間はどちらかというと余裕があり、懐が深い傾向があるのでしょう。

そして何より魅力に溢れています。

 

さまざまな経験から得た独自のフィルター通した世界観で観ているから、人を感化させることができるんだと思います。

 

宇宙に行った人、宇宙を感じ見てきた人。そういう人がなぜ大きな注目を浴びるのかというと、私たちの多くが宇宙に行ったこともなければ宇宙を感じたこともないからなのでしょう。

 

それだけ能力のある人だからこそ夢の世界に到達できるともいえますが。

 

人には個性がありますから、その人の世界観や価値観を観ていくことでそのような大きな魅力を備えることができるようになります。

 

人はまさに宇宙です。小さな小さな宇宙を展開していますから、その宇宙を感じることで行った人と同じような効果となるのではないでしょうか。

 

そう私は思いました。

 

人の可能性は無限大であり、もっとたくさんの宇宙を観ることができますように。

 

 

 

 

 


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