奈良公園シカの秘密、7割がメス、交通事故のほとんどはオス

トトメス5世 

 

奈良公園シカの秘密、7割がメス、交通事故のほとんどはオス

 

メス鹿は妊娠すると子供が大きくなるまで保護され、オスは道路に飛び出して車とぶつかる

シカ保護したのはあの3人だった

奈良公園の鹿は先日福島大学などの研究によって他の本土鹿から長年孤立していたため、遺伝子に差が生じているのが判明していました

奈良県の調査では22年7月時点で約1200頭いるが、戦時中にシカを食べたりしたため1946年には約80頭まで減少した

だが他から鹿を移住させたという記録がないので、鹿苑などで保護する事や自然繁殖で80頭から1200頭まで増えたようです

奈良公園と春日山は現在は道路で完全に囲まれているが、自動車が少なかった昭和前半までは外部の鹿も入っていたのではないかと推測されます

公園の鹿は何度も保護されたり虐待されたりしていて、1873年には餌不足で700頭から38頭まで減少したと記録されています

歴史上の人物では信長・秀吉・家康の3人が奈良鹿の保護に熱心で、むしろ政治的な理由で鹿を保護して名声を高めたかったようでした

 

奈良鹿の都市伝説としてあるのが「鹿をしなせると死罪だった」というものですが、事実として記録されているのは天文20年(1551年)10月2日の一度だけのようです

この頃今の奈良公園周辺の鹿は保護されていてやりたい放題で、田畑を荒らしたり人間を恐れず向かってくるが、反撃して鹿にけがをさせると罰せられた

『興福寺略年代記』によると近所の少女が鹿に悪さをされて石を投げたところ頭に当たってしんでしまい、引き回しのうえ極刑になり家族も追放されたと書かれている

興福寺は奈良奉行に鹿に石を投げる者になんども厳罰を要請していて、この話は実際よりかなり大袈裟に書いている可能性があるとも言われている

信長が厳罰を指示したという話もあるが1551年に彼は18歳で家督を継いだばかりなので、関わっていないと思います

信長・秀吉・家康は奈良鹿を熱心に保護したものの、江戸時代の終わりまでそれで極刑になったという公式記録は一件も存在しません

時代が変わって明治になると政府は奈良鹿の保護をせず、住民らが自由に捕まえて食べたりしたので減少し受難の時代になりました

数十頭まで減少する2度の絶滅危機後に保護されるようになり、最近は増えすぎて問題が起きています

 

交通事故で個体数が調整されている

奈良公園周辺の鹿の適正人口は600頭から1000頭くらいとされているので、1200頭は多すぎるという指摘がされています

増えた理由は妊娠した鹿を鹿苑に収容し出産後に安定してから外に出しているからで、鹿苑で毎年200頭くらいが生れています(苑外でも生まれるのでもっと多い)

2022年調査では生息数1,182頭でオス204頭、メス747頭、子鹿231頭で生まれる鹿より死亡する鹿が少ないので鹿が増えています

奈良鹿の男女比はオス204頭に対してメス747頭とバランスが悪いですが生まれた時は同数だったのが成長すると男女比1対9くらいになります

原因はオスは発情期などに興奮して道路に飛び出して車と衝突するからで、年間80頭程度が交通事故で死亡しています

 

もし鹿が交通事故に遭わなくなるとそれも問題で、個体数が増えすぎて2000頭や3000頭になってしまうでしょう

鹿と衝突する交通事故は毎年100件から140件発生していてほとんどがオス、鹿苑では病気やけがをした鹿200頭以上を収容している

健康な鹿も収容されていてこれは畑を荒らしたり店先や民家で常習的な「盗み食い」をする不良の鹿と説明されている

奈良鹿と言えば鹿せんべいですがあれは観光客向けのもので鹿にとって必要ではなく、地面に生えている草を主食にしています

奈良公園には芝生の広場が多いが、鹿は前日伸びた柔らかい草を朝食べて日中は昼寝をし午後はカロリーを消費しないようにごろ寝しています

奈良公園の特にオス鹿は紀伊半島の野生鹿に較べて非常に小さいが、狭い場所であまり運動をしないので大きくなり難いようです

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