話題提供します 真偽の詮索はご自分でという 無責任サイト
(旧 これは 見とこ知っとこ メモ)
あとはおまかせ
朝鮮通信使は外交使節ではなく幕府が雇った「チンドン屋」だった
通信使はただで飲み食いして帰っていった
これまた わかりやすい
教科書の副読本に 載せてもらいたいもの
トトメス5世
江戸時代に朝鮮から日本へやってきた朝鮮通信使については、誤解やウソがまかり通っている。
下関や対馬では通信使のイベントをやり、世界遺産に登録しようという運動も行われている。
どうせ金儲けが目的だからやっても良いのだが、外交使節だったとか日朝の親密さを示すなどの説明がされている。
事実としては朝鮮通信使とは、全額徳川幕府が費用を負担して招待した「ちんどん屋」であって、それ以上ではなかった。
幕府の目的は、朝鮮が幕府にひれ伏して服従し、使者を送ってきたと諸藩や領民に示す狙いがあった。
朝鮮側は日本が「兄の国」朝鮮に服従する証と勝手に言いふらしていて、当時から真っ向対立していた。
朝鮮は新羅から1000年以上皇帝の家臣であり、属国ですらない中国のひとつの自治体に過ぎなかった。
隋や唐や明や清と日本は対等だったので、その自治体に過ぎない朝鮮と日本が対等と言うのは、最初からありえない。
朝鮮通信使を日本側は将軍への献上としていたが、朝鮮側は朝鮮の進んだ文化を日本に与えたなどと言っていた。
朝鮮通信使が日本で外交交渉を行ったという記録はなく、徳川幕府の威信を諸侯に見せ付ける目的で招待した。
朝鮮通信使が大阪に上陸して東海道を練り歩きながら江戸に入り、江戸市内は行列を見物する人々でにぎわった。
通信使はただで飲み食いして帰っていった
朝鮮通信使が宿泊したのは「あの」吉原で、飲めや歌えの大騒ぎを繰り返して帰っていった。これも幕府の威光を知らしめるためで、こんな豪遊する人たちが将軍様に拝謁に来た、という事が幕府の威信を高める。
諸侯に見つけるためだったので江戸に直行せず、九州から瀬戸内海を通って、大阪からは陸路で大名行列のように行進した。
江戸時代に12回の朝鮮通信使が来日し、江戸初期の1607年から1764年までは約10年間隔で来ていました。
50年ほど空いて1811年を最後に途絶えたが、両国の対立が深刻化して日本側が拒絶したからでした。
1回の通信使は300人から500人の使者で構成され、日本側の負担は1回100万両だったとされています。
江戸時代は米経済で1両は1石に相当し、1石の米で人間一人が1年間生活できた。
つまり100万両は100万人の年間所得に相当するので、現在の価値で4.5兆円もの高額でした。(サラリーマン平均年収450万円で計算)
低く見積もっても1回2兆円以上かかっていたので、財政難に陥った幕府は滞在費用をけちって簡素にしました。
すると朝鮮側はタダ飯を食わせてもらったくせに「朝鮮を軽んじた」と激怒してゴネて反発した。
60万両に減らしたのを100万両に戻して1764年まで続けたが、幕府は「もう来なくて良い」として通信使を廃止しました。
約50年後の1811年に最後の朝鮮通信使が勝手に対馬まで来たが、幕府と金の支払いで揉めて結局追い返しました。
日本での滞在費用は幕府持ちだったが、対馬に来るまでの費用は朝鮮持ちなので、朝鮮側の負担も少なくなかった。
その頃朝鮮は貧困のどん底にあり、役人といえども食べるものが無い暮らしで、日本旅行は一生の夢と言えるものでした。
故郷では木の根を食っていたような連中が日本に来ると贅沢三昧の数か月を過ごし、形式上は武士や貴族のように扱われました。
« 八月に憂慮す... | 文在寅大統領... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |