古事記、日本書記によれば崇神天皇の御代に伝染病が大流行し、国民の半分近くが死んだ

 

宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022)12月26日(月曜日)
       通巻第7567号   <前日発行>
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 中国に猖獗する新型コロナ。死者が毎日5000人
  四月に120万人が死亡すると医学研究所は予測を「上方修正」
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 異様な光景が中国の都市部に出現した。
 ゼロコロナ政策を緩和した途端、武漢肺炎(Covit19)の新型が蔓延し、一日五千名の死者。すでに中国全土で2億5000万人が罹患し、わけても山東省青島では毎日49万から53万人が罹患している(2022年12月25日の各紙)。
 オミクロン株より感染力のつよい新型は[BFセブン・バイアット]という(『ザ・タイムズ・オブ・インディア』、12月24日)

 12月12日から20日までの統計を平均すると罹患は一日五千名、病床も医者も足りない。病院の廊下にもベッドがならび、病棟裏には棺桶が山積み。

 英国エアフィニティ研究所の予測では旧正月(1月22日)を挟む春節(旧正月)に一日370万人が感染すると予測されるとし、三月にはそれが420万人になるだろうと不吉な予想をだした。ちなみに来年の旧正月は1月21日から27日まで。28,29も土・日曜日だから実質九日間、中国の生産現場はお休み、人口の大移動がおこり、各地の観光スポットは人であふれかえるはずだが、いずこも閑古鳥が鳴くだろう。日本への中国人ツアー? まだ一年以上はあるまい。

 古事記、日本書記によれば崇神天皇の御代に伝染病が大流行し、国民の半分近くが死んだとある。聖武天皇の御代には遣唐使、遣日使が太宰府にはいると、ニケ月留め置かれた。伝染の有無を確認するため潜伏期間を二ヶ月と設定した。
 それから代表使節団が京へのぼり天皇に拝謁する。ところが防疫はならず、猛威が襲いかかり、一時は太宰府も閉鎖され、防人たちを帰省させた。朝廷の出入りを制限し、聖武天皇は在宅(宮)勤務。つまりロックダウンとテレワークだった。

 それでも伝染病は猖獗を極めた。聖武天皇は三回遷都された。恭仁京、設楽宮、難波宮。そして平城京へ戻るのは三年後だった。遷都は疫病からの隔離が主な目的で有り、東大寺の大仏建立は厄払いを兼ねた。

 のちに権力を振るう藤原不比等の四人の息子も伝染病に罹患して次々と死んだ。その武智麻呂(不比等の長男)の息子、藤原仲麻呂は反乱に失敗して藤原南家は潰える。
すると次に藤原北家が栄えやがて「この世をばわが世」を謳う藤原道長の登場となった。その道長さえつねに病魔との闘いだった。


 ▲「わが世とぞ思うもちつきの」時代にも伝染病の猛威で
貴族もつぎつぎと死んでいった

 この藤原道長の少し前に、女流作家たち(紫式部、和泉式部、清少納言、赤染衛門ら)が華やかに活躍する先駆けとなったのが道綱母(名前が分かっていない)の書いた『蜻蛉日記』だ。

その一節には、息子の道綱が罹患したこと。夫・兼家の兄で太政大臣だった伊伊(これまさ)の息子二人が天然痘に罹患し死亡したことが記されている。

「この世の中は、疱瘡(もがき)おこりてののしる。二十日のほどに、このわたり(周囲)にも来にたり。助(道綱)、いふかたなく重くわずらふ。『いかがはせむ』とて、言絶えたる人(夫の兼家のこと)にも告ぐばかりあるに、わがここちはまいてせむかた知らず」(新版『蜻蛉日記』、角川文庫)

これは夫が道綱母とは事実上別居し、ほかの女にうつつを抜かしていた時で、それでも、つれない兼家にも息子の病状をしらせようかと思ったという意味である。兼家は正妻との間に道隆、道長を産ませた。つまり蜻蛉日記の作者道綱母の夫が道長の父である。

正妻の子供らが出世し、また他にも幾人かの愛人をわたりあるく夫への哀愁や、嫉妬。つまりは「存在しているのか、どうかも不安定なかげろう」に日記の題名がかかっている。

道綱は奇跡的に助かるのだが、平安時代になった遣唐使をやめて百年以上も経過していたにも関わらず伝染病は間歇的に流行していたことがわかる。

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