かつて一万円札の肖像画は聖徳太子だった

宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022)12月6日(火曜日)

 


 かつて一万円札の肖像画は聖徳太子だった
  現代歴史学は「厩戸皇子」とだけ表記する怪しい流れに

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相澤宏明『聖徳太子・千四百年の真実』(展転社)
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 聖徳太子の評価は、この千四百年の間に幾度か激変に見舞われている。
 近代の評価の変遷だけを切り取ってみても、幕末維新期には主に平田学派が聖徳太子批判を牽引した。平田神道学は廃仏毀釈運動を過激化させ、わけても薩摩と水戸では凄まじく、島津藩主自らが菩提寺を棄却し、照國神社を創建した。薩摩藩領内にあった寺院は全部棄却された。
 仏教は国民の信仰を集めたが、僧侶たちの堕落が激しく、しかし江戸時代には寺々の人別帳が戸籍を兼ねており寺は行政の一環でもあった。
 中世にピークを極めた仏教は有力な寺院で僧侶たちが武装し、徴収し、独立国の赴きさえあって、信長は武力による殲滅を図った。
徳川家康は仏教徒を政治のシステムに取り込み、しかも仏教の思想的影響力を排除しつつ儒学をまつりごとの根本に据えた。この朱子学が熟成、爛熟し、水戸学へと繋がる。尊皇攘夷のイデオロギーは幕末の志士たちの思想的基盤になった。
 平田篤胤学の聖徳太子批判の要点は外国かぶれでシナにへりくだったからであり、仏教は国家統治の手段として蘇我氏が利用したが、聖徳太子は蘇我氏の意のままに動かされたのだという近視眼的な解釈がほとばしった。基調に過激な攘夷思想があった。
 ところが明治維新政府のもと、日清・日露戦争に勝利した日本が西欧列強に追いつき、大国の仲間入りをすると、聖徳太子評価が一転する。
第一に「日出ずる処の天使、日没するところの天使に」云々とシナと対等に渡り合った外交を展開した英傑であり、国威発揚の象徴、ナショナリズムの功労者という文脈で評価替えがおこり、聖徳太子は名声を回復した。
戦後はこれに「平和憲法」を信奉する人々が短絡的に「和を以て貴しとなす」の十七条憲法こそが、日本人の和を求める世界平和の魁だったのだと我田引水、自己中毒の解釈となる。
したがって戦前から戦後ながらく聖徳太子が我が国の紙幣の肖像画として印刷され、高い評価がしばらく続いた。
現代はどうなったか?
歴史学界が左翼史家たちに乗っ取られ、岩波新書史観は顧みられなくとも、近年の中公新書史観ともいえる歴史学者の主流派は科学万能の合理主義であり、イデオロギーを基軸にするか、政治体制に焦点を当てるものの人物本位としての流れを抑え込んで歴史の浪漫を軽視し、文献のみが証拠物件とする。
このような「合理的」視点で「聖徳太子は存在しなかった可能性がある、厩戸皇子はたしかに存在したが」等と怪しい所論を展開しているのである。
仏教は538年に渡来したが、大伴氏、物部氏が強く排斥し、蘇我個人の信仰にとどまっていたに過ぎず仏像は難波の川に捨てられた。大和朝廷の飛車角だった物部、大伴は瓊瓊杵尊の天孫降臨に随伴した名門豪族であり、新興の蘇我氏など相手にもしなかった。
古来より日本人は自然を尊ぶ、古神道と農業社会が普遍化すると太陽信仰が重なり、各地の磐座信仰は原始的段階から山岳、金鉱への信仰が加わった。安定した社会秩序は邑々で首長を兼ねるシャーマンが治め、地域が広がると村の連合から「王」がうまれた。大和朝廷の原型は近畿豪族の連合、神武天皇は「共同王」だった。
ところが渡来人を束ね、朝鮮半島を経由して這入ってきた仏教に早くから着目した蘇我氏は仏教を国家統治に極めて有効な手段であることを発見し、布教の邪魔となってきた大伴、物部を滅ぼし、崇峻天皇を殺害し、横暴を極める。この崇仏路線を売国的として物理的に蘇我を滅亡させたのが「乙巳の変」だった。
中大兄皇子の黒幕は神祇伯の中臣鎌足だった。ところが事変後、皮肉なことに仏教はますます人口に膾炙し、聖武天皇の御代には事実上の国教となって古代豪族の力のシンボルだった古墳は急激に廃れ、寺院建築の贅を競うようになる。

巷に溢れる誤解だらけの聖徳太子論に、著者の相澤氏は長年の研究成果を基礎にして一石を投じた。本書の波紋はどこまで拡がるか?
相澤氏はまず十七条憲法と冠位十二階制度の解釈を正している。
「聖徳太子は仏教を最大限活用した」(中略)「我が国の伝統を踏まえ、そして対外的に国威を発揚していくため、仏教を活用しつつ、危機的環境に置かれた日本の再生に対する回答をだした」(49p)とする。
また冠位十二階制度はシナの模倣ではなかったとし、「仁義礼知信」は五階だが、この上に「徳」をおいて六階としたのが聖徳太子の稀な知恵であり、六階、上下合わせて十二階とし、官僚たちの向上心をうながしたのだとする(58p)
十七条憲法は国家の基本を述べたように見えるが、じつは官僚たちの規律である。和と尊び、長幼の序を尊重し、「承詔必勤」を統治の基本に据え、勧善懲悪、破邪顕正。そして合議が重要だと説いた。早寝早起きの励行、上下関係をおそろかにするのは国家転覆の悪に繋がるとした。聖徳太子の発想も仏教を統治の手段としている点では蘇我氏と共通だったのである。

本書では詳細を論じていないが、日本では何故、大乗仏教が主流となり、小乗仏教は排斥されたのか。もしくは仏教の主流を小乗仏教が形成できなかったのか。
聖徳太子は『法華経』『維摩経典』等の解釈をなしたが、これらは在家信者のための教えである。
釈迦の教えは入滅後、セクト化した。最も保守的で権威主義的な正統派を「上座部仏教」(小乗仏教というのは大乗仏教からみた侮蔑語)と言う。ミャンマー、ラオス、スリランカから東南アジア諸国に拡がった。釈迦の教えに忠実に、出家して戒律を守ることで解脱を目指す信仰だ。
しかし日本で好まれたのは在家であり、この思想が大乗仏教と総称され、広く民衆の救済を目指した。
つまり小乗仏教では出家して修行を積み戒律をマスターした高僧が下々を導く。カソリックが教会の聖職者に権威を持たせる一方で、利権と化した。その批判者としてフスやルターがうまれ、やがてプロテスタントが勢力を扶植したように、中国では高僧が政治に介入しようとした。
中国皇帝が重視してきた儒教・道教と新興の仏教がぶつかるのは当然だろう。シナでの布教の限界を悟った高僧らは居場所を求めて、つまり「宗教の市場化」と求めて日本に渡来した。
たとえば鑑真が日本仏教界を指導しようとして乗り込んだが、すでに中国の仏教の上座部仏教より、日本では「在家信者」が主流だった。
鑑真は六度目の正直で来日を果たした(天平勝宝5年=(753)。奈良への到着は翌年になり、平城京で聖武上皇の歓待を受け、孝謙天皇は戒壇設立と授戒を鑑真に一任した。受戒をシナの高僧に任せたのだ。
鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けたという。鑑真は唐招提寺で死去した。
鑑真らの活動も東大寺でこそ支配的だったが、日本の仏教界で鑑真の影響力は大きくならず、唐招提寺で留まった。のちに浄土真宗、日蓮宗など大乗仏教が多数派となった。日本における小乗仏教は曹洞宗(永平寺、總持寺)であり、開山はシナ留学帰りの道元だった。ちなみに平安時代に栄華を築く藤原道長が信仰した仏教は大乗仏教の浄土宗だった。

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