陸の孤島が有名にしたシーン 静岡県熱海市・貫一お宮の像 

その背景は・・・

産経

【門井慶喜の史々周国】陸の孤島が有名にしたシーン 静岡県熱海市・貫一お宮の像

尾崎紅葉『金色夜叉(こんじきやしゃ)』ほど易しい小説はないなどと言ったら、さだめし反論があるだろうか。あの明治三十年(一八九七)から書きはじめられた、古めかしい文章の、あまりにも現代とちがう生活や風俗を描いた長い小説のいったいどこが易しいのか。

しかしたとえば、こんなくだりはどうだろう。第七章冒頭、岩波版全集より。やっぱり難しいと思われた方は、ぜひとも声に出して読んでほしい

熱海(あたみ)は東京に比(ひ)して温(あたたか)きこと十余度(よど)なれば、今日漸(けふやうや)く一月(ぐわつ)の半(なかば)を過(す)ぎぬるに、梅林(ばいりん)の花(はな)は二千本(ぼん)の梢(こずゑ)に咲乱(さきみだ)れて、日(ひ)に映(うつろ)へる光は玲瓏(れいろう)として人の面(おもて)を照(てら)し……

どうだろう。びっくりするほど情景が頭に浮かんだのではないか。このくだりの初出は「読売新聞」だけれども、当時の読者は小説だけでなく、政治や社会に関する記事もたいてい音読したはずだから、これはむしろ正しい読みかたである。黙読という高度な技術はまだ一般的ではなかったのだ。

すなわち『金色夜叉』はまず音楽である。耳の快感を尊ぶ。そのつぎに登場人物たちの行動や心理。だからストーリーは単純だ。前途有望な学生である間貫一(はざまかんいち)は、寄寓(きぐう)先である鴫沢(しぎさわ)家の娘・宮(みや)と婚約していたが、宮は、というよりたぶん宮の父のほうが金に目がくらんで、富豪の息子・富山唯継(とみやまただつぐ)と結婚することにした。貫一は絶望のあまり熱海の海岸で宮を蹴り飛ばして……。

この「蹴り」のシーンは有名になり、現在、銅像でもって再現されている。場所はJR「熱海」駅から徒歩十五分ほどの海の前。一度見たら忘れられない構図であるが、しかし私見によれば、この場面は、もしも舞台が熱海でなかったらこんなに有名にはならなかった。

ただ暴力的なだけではだめなのだ。そのへんのところを解き明かすには、話を少しさかのぼる必要があるだろう。

貫一とお宮は、そもそも熱海へいっしょに来たのではなかった。まずは宮のほうが東京の家を出た。貫一が家に帰ると宮はおらず、宮の父が、

「急に熱海へ出かけたよ。医者が湯治を勧めたらしい。四、五日のつもりで」

貫一はただちに熱海へのりこんだ。そうしたら恋がたきである富山唯継の姿を見て(これはほんとうに偶然来たのだが)、そのあと宮と会ったので、言い争いになり、つい足が出て……問題はこの「四、五日」だ。これは当時はまずあり得ないことだったのである。

熱海というのは、海の街ではない。

本質的には山の街である。なるほど海はあるにはあるが、砂浜などはほとんどなく、海がいきなり山になるので蒸気機関車が通れなかった。だから東京(新橋)から神戸へ向かう東海道本線は、この時代、あからさまに熱海を避けている。手前の国府津(こうづ)で大きく北へカーブして、箱根山のむこうを抜けて沼津へ向かっていたのである。

国府津から熱海へ行くためには、海ぞいの、というより海をのぞむ崖(がけ)ぞいの道をたどらねばならない。もちろん人力車はあるし、馬車鉄道や人車(じんしゃ)鉄道もあったけれど、これらの鉄道はまあトロッコに毛の生えたようなものであって、時間もかかるし金もかかる。一種の陸の孤島なのだ。

そのくせ湯の質はむやみといいから時間と金をたっぷり持っている上流階級はこのんで行く。行けば長期滞在になる。元来が「四、五日のつもり」で行くところではなく、だからこそ貫一は宮の父のことばに不穏なもののにおいを嗅ぎつけて、熱海へ宮を追ったのである。そうして、そこで富山とばったり会ったとあっては、貫一が、彼らの長期滞在の可能性へ思いを馳(は)せたのは当然のことだった。ありていに言えば「もう寝た」と思いこんだのである。

あの「蹴り」のシーンが読者の心を攫(さら)ったのは、つまりはこういうわけだった。庶民の行けない高級リゾート地と、そこで展開される「寝た」「寝ない」の庶民的な勘繰(かんぐ)り。あこがれと実感のみょうな融(と)け合い。そのさいその情景が目からではなく、音読を通じて耳から入って来たことは実感をいっそう生々しくしただろう。『金色夜叉』はまさしく当時の新聞読者という、庶民と上流の中間にある人々にぴったりの小説だったのである。

私はさきに、熱海は「山の街」だと述べた。多少は修辞的な気分もあったのだけれども、結果的に、このたびの悲惨な土砂災害がその「山」らしさを浮き彫りにしてしまったのは残念だった。ただし現代の熱海は陸の孤島ではない。トンネルの開通によって東海道本線はもちろん新幹線も止まるようになった。熱海はやっぱり魅力的だと紅葉山人(さんじん)に和して言うこと件(くだん)の如(ごと)し。

 

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