渋沢栄一は「近代日本資本主義の父」と呼ばれるが、実は経営者としてはダメだった、という評価も聞かれる。設立や経営に関与した企業の数は500にも上るが、実際に経営者として携わったのは2社。それもそのうち1社は潰しかけている。渋沢は経営者失格だったのか?

 今回は、この疑問に対して、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』の著者である歴史家・作家の加来耕三氏が、明確に答えてくれている。ここでは、「インフラ整備」の意味について再認識できると思う。

 前回は、渋沢栄一がなぜ「近代日本資本主義の父」と呼ばれるようになったのかを解説しているので、そちらもぜひご参考いただきたい。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 

 渋沢栄一が大隈重信に引っ張られて新政府の役人となり、「公債」を使って得た資金を活用して廃藩置県を成し遂げつつあったとき、大蔵卿(現在の財務大臣以上の権限を有した)である大久保利通や政府首脳部の木戸孝允、岩倉具視などは日本から逃げ出していました。これが「岩倉使節団」です。

 廃藩置県に取り組んではみたものの、本当に成功するかどうか確信がなかったのです。大久保たちの本音は、日本に残してきた大隈たちに公債とやらを発行させて秩禄(ちつろく)処分の道筋をつけさせ、失敗したら西郷隆盛、政府残留組に責任を取らせればいい、と考えていたのです。

 大久保たちは1年半後に日本に帰ってきました。すると、廃藩置県がうまくいっていただけでなく、学制から四民平等、職業選択の自由まで、明治維新の理想を全部、渋沢らも活躍して実現していたというわけです。ちなみに30年償還とした公債は、税金の徴収で足りなければタバコに税金を課すなど、できる限りの手を使い、実際に30年で見事に償還することができています。

 渋沢栄一は西郷隆盛を尊敬していましたが、大久保利通とは反りが合いませんでした。大蔵省のナンバー2である大蔵大輔・井上馨とは仲が良かったのですが、その井上が、予算編成を巡って財政の健全化を主張したものの、留守政府の人々に受け入れられず、大蔵省を辞めました。すると、渋沢も「ご一緒します」と言って新政府を辞すのです。明治6年(1873年)5月、渋沢34歳のときのことです。