大量殺人を計画するテロリストだった渋沢栄一が“転向”した理由

放送中の大河ドラマ 加来さん話

 

大量殺人を計画するテロリストだった渋沢栄一が“転向”した理由

 渋沢栄一は武州の豪農だったが、仲間と共に尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を打ち払う)思想に染まり、討幕のために今の群馬県高崎市にあった高崎城乗っ取りを企てるが、これを中止して江戸に出る。江戸では、道中手形を融通してもらい、混乱の京へ──。その後、なんと、将軍家の身内である一橋家に仕えることに。攘夷からも転向し、一橋慶喜の弟、昭武(あきたけ)のフランス留学に随行した。

 今回は、渋沢のこの変わり身について、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』の著者である歴史家・作家の加来耕三氏が、考察してくれた。

 前回は、渋沢栄一が「『経営者失格』と言われても、渋沢栄一がやりたかったこと」を解説してくれているので、そちらもぜひご参考いただきたい。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 私は渋沢栄一の評伝を何冊か書いていますが、書くたびに悩んで筆が止まるのが、なぜ彼が体制(幕府)を倒そうとする“テロリスト”から、体制側に転向していったのかということです。これはどう考えてもおかしい。理解に苦しみます。

 なぜそのような転向ができたのか。

 結論から先に申し上げれば、私は、渋沢は独り善がりな性格で、その性格があり得ない転向をもたらしたのだ、と考えています。自分さえ頑張れば何とかなる。周りを変えられる。彼は本気で、自分が頑張れば国を変えられる、と思い込む人間だったのです。

封建支配と階級的差別に憤る

 渋沢は豪農の家に生まれますが、若くして幕府の封建支配と身分制度に激しい不信と憎悪を持つようになります。きっかけは、17歳ごろのことだったといいます。

 渋沢が父の名代として、他の近隣の豪農とともに村の代官屋敷へ呼ばれて行くと、代官から御用金が課せられました。御用金は税金である年貢ではなく、返済されることのない強要された寄付です。他の豪農たちは即座に「上意をお受けいたします」と返答しましたが、渋沢は「父に伝えて改めてお受けにまいります」と答えます。

 すると、床の間に座る代官は、下座で平伏している渋沢を見下ろして、「百姓の小倅(こせがれ)が」と嘲弄した。渋沢を、腹立ちと口惜しさが襲いました。

 寄付を申し付けながら、なぜあのように高圧的な態度で命じるのか。なぜ嘲られなければならないのか。その怒りが、封建支配と階級的差別への憤りに向けられていったといいます。このエピソードは、大河ドラマでも印象的なシーンとして放送されていました。

 その後、渋沢は江戸に留学して儒学や剣術を学びますが、そこで勤王の志士(朝廷のために活動した一派)と交友を結び、その影響から尊王攘夷思想に傾倒していきます。

 文久3年(1863年)、渋沢24歳のとき、同志69人とともに上野国(現・群馬県)の高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜の外国人居留地を焼き討ちして、多数の外国人を斬るという計画を立てます。そうすれば、欧米列強からの問責を受けて幕府は転覆し、朝廷をいただく新しい世が生まれるという、とても正気の沙汰とは思えない無謀な計画でした。

 決起を企てた段階で、渋沢栄一は幕府の転覆を計画した国事犯、テロリストです。もし実行していたら、後の日本近代資本主義の父は誕生しませんでした。

 同じ文久3年、尊王攘夷の過激集団「天誅組」が一千余人規模で決起して代官所を襲いますが、幕府・諸藩連合によって一網打尽にされ、全滅します。69人で決起したところで、最初の城乗っ取りからして成功などするはずがないのです。

 天誅組の顛末(てんまつ)を知った従兄弟から、決起を中止するよう説得され、渋沢は計画を断念します。ところが、この挙兵計画が、関東一円を取り締まる広域公安警察である関八州取締役に漏れて、探査の動きが見え始めます。そこで渋沢は従兄弟とともに、お伊勢参りを口実に、父親から100両の餞別(せんべつ)を受け取って、郷里を出奔します。

封建体制の中心、一橋家の要人に

 渋沢は、京都まで逃げようと考えるのですが、いったん水戸に入って、次に江戸に立ち寄っています。何をしに行ったかというと、かつての江戸留学時に面識を得ていた一橋家の用人・平岡円四郎に会うためです。道中手形が欲しくて会いにいったのです。テロリストが体制側の人間に、手形をくれと頼みに行ったわけです。この辺が実に、頭のいいやり方だと思います。

 ところが今度は、その京都で、考えられない転向をします。

 まず平岡の用人になり、平岡の世話で一橋家の用人になるのです。なぜ一橋家の用人になろうとしたのか。厳戒態勢の京都で動きまわるには、一橋家の家臣になったほうが簡単でした。しかし、尊王攘夷に凝り固まった人間が、体制側の中心の中の中心、御三卿の一つである一橋家の家臣になるなど、考えられません。

 なぜなのか。私は、十五代将軍職に就く前の一橋家の主君・慶喜を、自分は説得できる、尊王攘夷派に変えられると、渋沢が独り善がりで考えたからではないかと思うのです。自分が説得すれば、慶喜を動かせると。

 ところが慶喜との接触は得られない中で、一橋家で渋沢は、深谷の実家で培った商いに関する会計財務の手腕を発揮して、一橋家の財政再建を成功させます。この功績が認められて、慶喜の弟・昭武のフランス行きに、会計係として同行を命じられるのです。

 変わり身の早さは、渋沢栄一の持ち味の一つです。フランス行きを命じられたとき、彼は断ることもできたはずです。それを受けたということは、その時点であっさり攘夷を捨てたのだと思います。

スエズ運河の意義を理解する

 この考えが間違いではなかったことを、渋沢はフランスへ向かう道中で実感します。蒸気船での船旅から蒸気機関車に乗り換えてスエズの地峡を通るとき、渋沢はスエズ運河の開削工事を目の当たりにします。それを見て、これは日本が欧米列強に勝てるかどうかなどという前に、彼らの志のほうが立派ではないかと感じ入るのです。

 運河を造ってアジアと欧州を結ぶことは、一国の利益ではなく、世界全人類の利益を考えてのことだ。そうしたことを欧米列強は考えているのか、と渋沢は驚くのです。我々日本人より、よほど志が高いではないか。それを討とうとする攘夷思想は、そもそも間違っていたのだ、と考えを改めるわけです。

 フランスに到着すると、随行員のほとんどは外に出ず、フランスの人たちと触れ合おうともせず、現地の食事をも食べようともしません。とにかく目にすること、耳にすることすべてが嫌で嫌でしょうがなく、早く日本に帰りたいという人たちばかりでした。

 その中で、独り異質だったのが渋沢栄一でした。見たこともない黒い色をしたコーヒーを出されて、最初に口を付けた。ダンスに誘われて最初に応じたのも渋沢。彼は在仏中、自らの意志で髷(まげ)も落とします

 さらに渋沢は、なぜフランスがこれほど近代化に成功しているのかということを、ほかの随行員とは別行動で聞いて回ります。聞いた相手は、幕府から日本総領事を委嘱された銀行家ポール・フリュリ=エラールです。

 彼はフリュリ=エラールから、サン=シモン主義によって、民間に眠っている資金を、利息によって引き出し、集め、鉄道や製鉄、鉱業、交通といった産業投資のための、大きな資本へ変えるシステムの存在を知ります。スエズ運河の開削工事も、その仕組みを使って行われているのだと知らされます。

 単なる新しもの好きにとどまらず、そうしたことをもたらすシステムの何たるかを探り、それに感服できることが渋沢栄一の卓越した凄味(すごみ)だと思います。

何事にも固執しなかった渋沢

 昔はこうだったとか、自分はこういう主義だといって、それらに固執してそのまま進んでいれば、渋沢も、いずれどこかで立ち往生して野垂れ死にしていたでしょう。

 しかし彼には、一つの考えに固執しない、変わり身の早さがありました。テロリストから体制側への180度転向するし、主義主張やメンツ、方向性にとらわれない柔軟さがありました。渋沢栄一には、自身を拘束するものが何一つなかったのです。

 彼は、自分が賽を振ることで、周りを巻き込み、巻き込んだ後の方向も自分で変えられると考える、独り善がりの性格であり、やりたいと思ったことはやり遂げなければならないなどと固執せずに、やれること、やったほうがいいことにどんどん踏み込んでいったのです。

 主義主張ではなく、自分を必要としてくれること、求められていることを実行していったのが渋沢栄一です。その変わり身の早さが、日本の近代化をいち早く進めたのだと思います。

加来耕三(かく・こうぞう)
歴史家・作家。1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、奈良大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師を務めながら、著作活動にいそしんでいる。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。主な著作に『幕末維新の師弟学』(淡交社)、『立花宗茂』(中公新書ラクレ)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など多数

 

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