【大手町の片隅から】乾正人 明治人の「覚悟」 我にありや

 

【大手町の片隅から】乾正人 明治人の「覚悟」 我にありや

夏休みに上京してくる親戚や知人に都内で涼しい場所を聞かれると、「明治神宮」と即答している。

神宮が造営された大正初期に全国各地から寄贈された約10万本の樹木(現在は自然淘汰(とうた)で約3万6千本)が植えられ、今や太古の昔からあったかのような杜(もり)に成長している。オーバーに書けば、軽井沢に行くのと大して変わらない

明治天皇と乃木大将

参拝した8月某日、境内には英語、中国語はもちろん、スペイン語や韓国語が飛び交い、日本人よりも外国人観光客の方が多かった。

ひさかたの 空はへだても

なかりけり

地(つち)なる国は 境あれども

明治天皇の御製(ぎょせい)を思い起こさせる光景だったが、参拝後のお目当ては、原宿駅近くにある明治神宮ミュージアムである。

乃木神社鎮座百年を記念して来月24日まで開かれている「明治天皇と乃木大将」展(木曜休館)を見るためだが、これは必見である。

明治天皇が着用された軍服や日露戦争中に使われた質素で頑丈なタンス、農民姿で鍬(くわ)を持つ乃木希典像といった貴重な品々もさることながら、圧倒されたのは彼の書だ。

特に旅順陥落後にしたためた「皇師百萬」は胸に迫る。

皇師百萬 征強虜

野戦攻城 屍作山

愧我何顏 看父老

凱歌今日 幾人還

(大意)百万の皇軍は、強いロシアを懲らすため出征した。だが、野戦や要塞攻撃で死者の山を築いてしまった。多数の将兵を死なせた私はどの顔で遺族と会うことができようか。凱歌(がいか)をあげたいま、故郷に無事帰れるのは何人だろうか。

乃木大将が指揮を執った旅順攻囲戦は、明治37年8月から4カ月以上にわたる激戦の末、日本軍は勝利し、日露戦争の大きな分岐点となった。だが、日本軍の戦死者は1万5千人以上にのぼり、彼は責任を取って凱旋(がいせん)後に割腹する覚悟でいた。それを押しとどめたのが明治天皇であり、学習院の院長に任じた。間もなく入学する迪宮(みちのみや)裕仁親王(昭和天皇)の教育を託したのである。

 

伊藤博文公かく語りき

さて現代である。

自民党の麻生太郎副総裁は、台湾で講演し、「日本、台湾、米国をはじめ有志国に強い抑止力を機能させる覚悟が求められている。戦う覚悟だ」と強調した。

まさに正論である。相手に戦争を起こさせないために強い抑止力が必要なのは、世界の歴史が教えてくれる。ただ、あと一言足りない。

対露戦争に最後まで反対した伊藤博文公は、御前会議で開戦が決まった夜、セオドア・ルーズベルト米大統領と面識のある金子堅太郎を自宅に呼んで、ただちに渡米して対米工作をするよう命じた。このとき62歳の伊藤公はこう語ったという。

「いよいよロシア軍が我(わ)が領土に迫りくれば、身を士卒に伍(ご)して鉄砲を担ぎ、我が生命のあらん限りロシア軍を防ぎ、敵兵は一歩たりとも日本の土地を踏ませぬという覚悟をしている」

 

さあ、麻生氏にも岸田文雄首相にも伊藤公の覚悟はあるだろうか。そして偉そうなことばかり書いている私にも。(コラムニスト)=次回は9月1日掲載予定

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