恋多き女優・松坂慶子と無名のミュージシャンの結婚に父は大反対

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恋多き女優・松坂慶子と無名のミュージシャンの結婚に父は大反対【芸能記者稼業 血風録】(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース

 

【芸能記者稼業 血風録】#95  芸能人の結婚・離婚のカギを握るのは母親である

事が起これば母親の取材は鉄則だった。父親が取材を受けるケースは少なかった分、強く印象に残っている。

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 古くは女優・十朱幸代の父で俳優の故・十朱久雄氏。すでに俳優をリタイアしていた頃だった。都内にある自宅に行くと、丁寧に応じてくれた。聞くのは娘の結婚話。

 十朱は17歳の時に歌手で俳優の小坂一也と恋に落ちた。以後、小坂一筋、実に15年間、事実婚状態だった。十朱のブレない愛にスキャンダラスな報道は減り、「いずれ結婚するだろう」と見守っている感じだった。それでも「いつ結婚するのか」だけは気になる。カギを握るのは父親だった。

 温厚で物腰の柔らかい父親は「僕はわからないな。いい青年だと思うけど、結婚は2人の問題」と笑うだけで、もっぱら世間話をしていた。そんな父を心配させまいと、十朱も近くに自身の家を建設。ちなみに、壁が薄いピンク色だったことから、「ピンクの御殿」と呼ばれていた。  小坂と生活しながらも実家と行き来しており、父親との時間は良好だった。

「そうはいっても父親は幸代さんの花嫁姿を見たいのが本音よ」と親戚筋の人の話を聞いたが、やがて小坂とは破局を迎えた。メディアも予期せぬことに驚くばかりだった。

 十朱は2年前に出版した自著「愛し続ける私」のなかで“他に好きな人ができた”と小坂から別れを告げられたという。プレーボーイの小坂の心を奪ったのが、女優の松坂慶子だった。偶然だが、松坂の父親も取材に応じてくれた人だった。

「恋多き女優」と言われた松坂。その中のひとりが小坂だったようだが、松坂の恋がメディアで大きく騒がれたのは映画監督・深作欣二だった。

「監督と女優」の関係で仕事を共にしてきたことで業界内に噂が広まり、メディアも2人を追うようになる。典型的な熱愛発覚パターンだった。

 深作の奥さんは元・東映の女優。映画関係者にパイプはある。京都市内での夫の動きはキャッチされやすい。

「会うなら松坂の住む東京だろう」と都内に網を張った。東京のどこで密会するのか、行きつけと聞いた飯倉にあった客の大半が外国人というバーに行ったが、日本人のほうが逆に浮いてしまうような店だった。

「こういう店の常連になればバレにくいだろう」と思いながらも、聞き込みどころではなく退散した。確かな成果もないうちに、世紀の不倫もやがて収束。松坂の周辺も静かな日々が続いていた時だった。

 1990年、38歳になった松坂が無名のジャズギタリストの高内春彦との結婚を発表した。噂のかけらもない相手。音楽界の人に聞いても「知らない」という無名の音楽家だった。ヒゲを生やした小太りの体形は「美女と野獣」と言われ、トップ女優と無名の音楽家の組み合わせに「究極の格差婚」と揶揄された。そんな世間の声に呼応するようにメディアに出てきたのが松坂の父親だった。「結婚は認めん」と猛反対。父と娘の戦いが始まった。 

 

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 両親の後押しで児童劇団に入り、女優を目指していた松坂慶子。高校卒業後、大映専属に。1980年代、「火宅の人」「蒲田行進曲」などの映画で一躍、スター女優の仲間入りを果たしたが、女優人生の起点になる作品となったのが1971年「夜の診察室」だった。

 後に映画関係者から聞いた話は、当時の映画界を象徴する話だった。

「本来、主演は当時、売り出し中のセクシー女優・渥美マリだったのが、“もう肌を露出するのは嫌”と拒否したことで松坂が起用された。結果的にこの映画で松坂は注目されるようになり、スターの階段を駆け上がっていった。対照的に渥美は松坂に嫉妬するようになって精神的にズタズタになり、睡眠薬で自殺未遂を起こすなどした」

 女優がケガや病気で降板。「内心、手を叩いて喜んだ」といわれた時代。代役にとって巡ってきたチャンス。松坂はこの映画をきっかけに確実にステップアップし、松竹に移籍後もさらに活躍の場を広げていった。

 80年代に入るとTBS系ドラマ「水中花」に主演。主題歌「愛の水中花」がヒット。バニーガール姿で歌う松坂のセクシーさに男性は魅了された。ドラマの宣伝でインタビューしたことがある。TBSの楽屋だった。松坂は視力が悪く、話す時は顔を近づける。潤んだような瞳で話しかけられ言葉を失うほどだった。

 世の男性を魅了した松坂は「恋多き女性」と呼ばれたひとり。結婚相手は注目の的だったが、選んだ人は無名のギタリスト・高内春彦氏。休養も兼ね松坂が滞在していたNYで出会い、恋に発展した。

■最後まで結婚に反対

 想定外の結婚相手にメディアも驚いたが、それ以上に驚かせたのが取材に対応した松坂の父親の言動だった。世田谷にあった家でメディアの取材に応じていた。応接間の椅子に座った父親はかっぷくが良く威厳を感じる人だったが、こちらが質問するまでもなく、いきなり高内非難が始まる。

「ギタリストかなんか知らんが、収入もないのに亭主ヅラして毎日、ゴロゴロしているだけ」と罵倒していた。それでもかたくなに結婚を貫く娘。いずれ和解するだろうと思われたが、父親を直接、取材した私は「許すとは思えない」熱量を父親から感じ取っていた。父親は頑固に結婚を許さず折れない。

 遺伝子なのか娘も父親を説得するどころか、かたくなに父を無視。その間、高内氏も一切、発言することはなかった。発言すれば、火に油を注ぐことになり、父親の激高が増すことがわかっていたのだろうと思う。

 ついには「あんなヒモみたいな男をかばう娘も許せん」と親子断絶。松坂は夫の仕事の拠点だったNYに移住。当地で2人の娘を出産。2007年、父親は孫を見ることなく他界。残された母親はやがて介護が必要となり、松坂は家族で同居を決意。高内氏も義母の介護と子育てをして家庭を支えていると聞く。

 格差婚といわれた結婚生活も今年で30年目。夫に支えられて松坂の女優人生も母親役が板につき、充実期を迎えている。かつての父親との戦いが嘘のように思えてならない。

(二田一比古/ジャーナリスト)

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