ほのあかりの美 粋が日本女性の美

 こういうこと 言ってくれるひと 少なくなりましたね

加瀬英明のコラム  2020/01/15

ほのあかりの美 粋が日本女性の美   

私は昭和11年生まれだが、明治生まれの2人の女性をよく知っていた。
父方の祖母のか津と、母方の祖母の鶴だ。2人はそれぞれ9人と、8人の子を産んで育てた。2人とも小柄で気丈だった。
先の戦時中、私は外務省の少壮幹部だった父を東京に残して、母と長野県に疎開したが、空襲下で、か津が父の面倒をみた。
戦争が敗戦に終わって、9月2日に東京湾に浮ぶ敵戦艦ミズーリ号艦上で、降伏調印式が行われた。父は全権団の随員として、甲板を踏んだ。敵将マッカーサーが傲然と立つ前で、重光葵全権が万涙を呑んで調印するわきに立っているのが、42歳だった父だ。
父はその前の晩に、か津に降伏調印に随行することを告げた。か津は父を正座させると、「私はあなたを恥しい降伏の使節として、育てたつもりはありません。行かないで下さい」と、凛としていった
父はこの手続きを経ないと、日本が立ち行かなくなると、恂々(じゅんじゅん)と説明した。しかし、か津は承知しなかった。「わたしは許しません」といって立つと、隣室へ行って父のために翌朝の下着や、服を整えはじめた。衾(ふすま)ごしに泣きじゃくる声が、低く高く聞えた。
私は10月に父の借家に戻った。か津は私を正座させると、「英明さん、この仇はかならず討って下さい。約束して下さい」といった。私はいまでも、この教えを大切にしている。
鶴も焼け出されたので、戦後、鎌倉の私たちの家で暮した。鶴の父は薩摩兵を率いて、会津若松の攻城戦を指揮して、落城した時に自害した家老夫妻の娘を娶って、鶴が生まれた。会津若松城の別名の鶴ヶ城からとって、名づけられた。
私はか津と鶴の洋装姿を、一度も見たことがない。もっとも、あのころは服といえば和服であって、洋服はまだ洋服と呼ばれていた。
鶴はいつも毅然としていた。私がある時、時間を守らなかったところ、「時間も太陽や、人や草木と同じ生き物です。あなたの親しい友達です」と諭された。凛としているところが、美しかった。
私は幼いころから、母が着物を着るのを手伝わされたことから、着付けの免許も持っている。私は多年、公益社団法人『全日本きものコンサルタント協会』の役員をつとめているが、着物は心で着るものだ。諸外国のようにただ衣が美しく、正しく着ているだけではならない。立ち居振る舞いが、何よりも問われる。
私は空手道の有段者として武道に携わっているが、武道は心の道とされている。剣道、弓道、杖道、茶道、書道、華道、香道も、すべて内面の心のありかたが、基本となっている。日本だけにみられることだ。
日本の心を一言でいえば、何だろうか。和の心である。  和のために控え目であること、偽らないこと、周囲を思い遣ることが求められている。日本は美しい心の国であってきた
武道をはじめ、何ごとについても感情を露わにすることがあってはならなかった。和の心は自制心によって成り立ってきた
私が40代のころまでは、農村や漁村に皺だらけの老女がいた。
白いほつれ髪とともに、皺の数だけひたむきに生きてきた美しさがあった。いまでは高齢の女性が増えたものの、このような美しい女性を見ることがない。
日本女性の美しさを一口でいえば、粋(いき)であろう。粋は控え目であって、表に現われない心意気、心ばえ、気合がこもっている。
というものの、粋は異性なしに成り立たないから、巧みに媚態を秘めながら、暗示して男心をくすぐる。苦労があるとしても、凛としているから感じさせない。
ほのあかりの美というのだろうか。つい3、40年前までは、粋をはじめとして日常生活のなかに、気というリズムがあった。
人生は誰にとっても、苦の連続だと考えられていた。苦楽といって、まず苦があった。今日では大多数の人々にとって、楽の連続でなければならない。
そのために、すぐに不満を露わにして、耐えることができなくなった。挫折しやすい。
今日では屋内まで、LEDなどの剥き出しの照明によって陰影が消され、凹凸がなくなって、空間がつかみどころがない無性格なものとなっている。
とくに、若い女性たちは口を開くと、美しい音楽を聴いた、よい景色を見て「癒されました」という。私は「え? どこか病いを患っているのですか」と、たずねることにしている。癒されるというのは、病んでいることを前提にしている。
今日の女性は化粧が上手になったのと引き替えに、表情が険しい。外面を飾ることに熱中するあまり、内面を疎かにしている。
だが、女性は男性の鏡の存在だ。男性が劣化したために、女性を道連れにしたにちがいない。
いまでは「ブス」というと、容貌を指す言葉となっている。だが明治時代までは身のこなしかたが醜悪なことを、「不粋(ぶす)」といった。いつの間にブスが容貌についてのみ、いうようになったのだろうか。
江戸時代から明治までは、派手なことが嫌われた。けばけばしい身装をした田舎者の女性を、「葉(は)出(で)」と書いて嘲笑した。余計な葉がはみだしていることを、意味していた。
この30年ほどだろうか、羞(はじら)いや、ちょっとした女らしい仕草をみせたり、目もとがすずしい女性がいなくなった
もっとも、まだ日本には美しい女性がいる。11月に兵庫県に講演に招かれた時に、受け付けの20代のお嬢さんの物腰が、魅力に溢れていた。祖父が陸軍落下傘部隊の勇士だったということだった。
日本の女性に、絶望することはない。

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