1908年にローズヴェルトは白船艦隊派遣の発表に全世界は驚愕

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1908年にローズヴェルトはグレイト・ホワイト・フリート艦隊派遣の発表に全世界は驚愕

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試験問題の解説(2007年7月)-1 内藤陽介

1898年にフィリピンを領有したアメリカは、1904年の日露戦争に関して、日本がロシアに対してそこそこの勝利を収めるのが、最も好ましいシナリオであると考えていました。同時に、アメリカは、日露戦争後の国際秩序の変化をにらんで、具体的な敵国を想定した国防計画に着手。ドイツを仮想敵国としたプランをブラック戦略案と名づけたのをはじめ、イギリスはレッド、日本はオレンジ、南米はパープル、カナダはクリムゾン(臙脂)、メキシコはグリーン、といったように、それぞれ、色の名前のついた戦略案を策定します。

 ところが、1905年5月27~28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が全滅したことで、アメリカの太平洋戦略の前提となっていた軍事バランスが崩れ、日本の海軍力が突出したものとなると、慌てたアメリカは、6月9日、大統領セオドア・ローズヴェルトが日露両国に対して講和を勧告。さらに、7月、陸軍長官のウィリアム・タフト(後にローズヴェルトの後をついで大統領になる)が東京で首相・桂太郎と極秘に会談し、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を相互に承認する協定(桂=タフト協定)を締結し、日露戦争後に備えようとしました。以後、アメリカは日本に対して警戒観を強めていきます。

 一方、東洋人が白人を破った戦争は、アジアの人々に勇気を与えた反面、欧米では黄禍論を巻き起こします。特に、日系移民が急増していたカリフォルニアでは排日運動が激化し、1907年には、移民法が改正され、日系移民に対する実質的な制限が加えられました。また、アメリカ国内の大衆紙は国民の排日感情をあおる記事を掲載して部数を伸ばし、日本がアメリカ西海岸を攻撃する内容のシミュレーション小説が多くの読者を獲得します。

 国民の反日感情が高まる中、西海岸の人心を安定させるとともに、海軍拡張政策への国民への支持を取り付けようと考えたローズヴェルトは、1907年12月、大西洋艦隊をサンフランシスコへ向けて出航させました。これに関して、無責任な大衆紙は「アメリカ海軍は日本と戦うために太平洋へ出発!」と報じましたが、当初、政府は沈黙を守ります。しかし、艦隊が南米最南端のマゼラン海峡を廻って太平洋を北上し、1908年3月、メキシコのマグダレナ湾に到着すると、ローズヴェルトは、突如、大西洋艦隊の目的地はサンフランシスコではなく“世界一周”であると発表。艦隊が日本を威嚇するために太平洋を渡ろうとしていることは、もはや、誰の目にも明白となりました。

 ローズヴェルトの発表に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。米西戦争の記憶が生々しいスペインでは、日本への資金援助を申し出る貴族や資本家が続出したといわれています。

 これに対して、日本政府は、アメリカの攻撃を恐れながらも、欧米世論の挑発には乗らず、むしろ、大西洋艦隊を“歓迎”することで危機を脱しようと考えました。

 このため、国内では朝野を挙げて、“白船(大艦隊は船体の色からグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれており、これが日本語では白船と訳された)”歓迎のありとあらゆるキャンペーンが展開され、メディアでは、「文明開化もつまるところはペリーの黒船のおかげだった」との論説が日米友好の名の下にさかんに繰り返されました。その一環として、逓信省はここに挙げたような歓迎の記念絵葉書を発行し、白船の乗務員たち全員に無料で配布しています。

 結局、1908年10月18日に横浜に入港した白船は、同月25日、歓迎責めに当惑する乗員を乗せて無事、横浜を出航。欧米で予想されていた日米戦争は回避されました。

 もっとも、白船が横浜を出港してから2週間後、日本海軍の連合艦隊は、米軍が奄美大島を占領したことを想定した大規模な演習を実施。こうして、大日本帝国は、“仮想敵国・アメリカ”に対する準備を開始することになるのです。

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