美しき言尽くしてよ

飛騨古川へ行ってきました その1

今日は爽やかないいお天気になりました。
以前、ゴールデンウィークの頃に、母のいとこ会みたいなのをするのに、連れて行きましたが、今回、またそのいとこが誘ってくれました。
母の母、つまり私の祖母が糸引工女として、鈴鹿に行っていた時の史料を見せてくださるとのことでした。

朝10時に到着。
はや。
待ち合わせは飛騨市役所駐車場です。



こちらが「君の名は」で、モデルになったであろう図書館です。


今回も、母の妹、つまりわたしのおばも一緒でしたが、待ち合わせを10時半にしていたので、少し待ちました。
なので、市役所の裏にお寺があったので、そこへ入ってみました。
誓願寺さんです。









大銀杏が朝日に当たってとても輝いていました。




中は見えませんでしたが、朝の読経中のようでした。



ちょうど居合わせたご夫婦が、この銀杏がテレビで紹介されたそうで見にきていました。
へー、そうなんだ。





高山だと国分寺の大銀杏が有名ですが、
こちらもなかなか立派!

ここには太子堂もありました。





おばたちが着いたので、まず古川公民館へ向かいます。
ここに史料が保管されているそうです。



役所の方がわざわざ説明してくれました。





大正時代の史料が驚くほどきれいに残っています。

母は昔、祖母が岡谷に行っていたと思っていたそうで、そういえば「ああ野麦峠」の映画を子供の頃、一緒に観にいきました。
こんな苦労して、歩いて山を越えたのだなぁと思っていましたが、後で鈴鹿の加佐登というところだと知りました😅
でも、飛騨からはその頃、汽車がなかったため、富山まで歩いて、そこから汽車で福井のほうから回ったか、長野のほうまで歩いて、そこから愛知県を経て回ったか、とにかく子供には大変だったのは違いありません。




工女さんたちは、とても大切にされていて、村からお手紙を送ったり、あちらの会社からもたよりが来たり、帰省中には学校へ行かせたりしてくれたそうです。なので、祖母もそんなに嫌な思い出ではなかったのですね。
祖母が幾ら稼いだかとか、そんな史料まで残っていました。マル秘と書いてありましたが、時効ですね。そもそも、家族なので良いのですが。
役所の方も親切に祖母の載っているところをコピーしてくださいました。

当時は繊維工場は工女が必要で、各地の工場からスカウト?が来ていたそうで、祖母はたまたま鈴鹿に行ったようです。でも希望はできたみたいですね。
長野や群馬が有名ですが、愛知はもちろん、佐賀県までもありました。もう、あちらの人になってしまった方もたくさんいらっしゃるのでしょうね。

下は今でいう会社案内です。
こちらは信州岡谷の尾沢組さんです。




どんな体操をしたかまで残してある。
真向法体操に似ているみたいです。


真向法

飛騨古川役場の方、大変お世話になりました。

次にまた飛騨市役所に戻り、飛騨の匠文化館を案内してもらいました。

続きます。


コメント一覧

minamarisatoko13
ulalaさん
そうなんです。村も子供たちを大切にしたし、工場も大切にしてくれたようです。なので、祖母が愛知県に住んでいるうちの母やおばの家に来た時は、加佐登に行きたいというので連れていって、一緒に働いた子たちと再会したり、鈴鹿まで連れていってくれた検番さんのおうちに連れていったりしたくらいですから、本当に嫌な思い出ではないみたいなんです。ただ、次の次くらいに記事にしようと思っていますが、女工哀史のモデルの政井ミネさんのお墓のある角川というところにもこの後、行ったのですが、話を聞くと本当に辛いです。奇しくもちょうど明日がミネさんの命日なんだそうです。
ulala うーちゃん
実際に携わってた方々の生の体験談、参考になりました。
引くて数多で誇り持って日本の最先端工業を支えておられたんですね。
学校で習った絹綿織物工業の歴史と女工さんたち、
女工哀歌の映画とかで、勝手に辛いイメージ膨らませてたんだなと、つくづく。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行(飛騨古川)」カテゴリーもっと見る