きのう4月16日は寒川神社相模塾の第6回目でした。
2年目となり、今回から応用編とのことです。
終了後、お参りもしてきましたよ。
ベスポジで撮影。
今回は「寒川神社の歴史とお祭り」というお題でした。
いつも取り仕切ってくださる学芸員の佐川先生が講師でした。
寒川神社の創始からを、史料を基に説明してくださいました。
考古資料や社伝、記録から研究されておられます。
寒川神社は寒川町岡田にある王神塚古墳と深いかかわりがあり、その古墳は前方後円墳なのですが、4世紀後半ごろにいた権力者のお墓であり、寒川神社の創始に深く関連した国造がいたのであろうということでした。
私自身は寒川という名前と富士山との関連にも興味があり、というのは、寒川神社は相模川流域にあり、相模川は元は富士のふもとの山中湖が源流で流れており、それは桂川といいますが、その桂川は昔は寒川と呼ばれていたそうです。
そして、寒川神社では富士山の火山灰をお参りにこられた人は持って帰れるようになっていたと思うのですが、(最近は見たことがないのでなくなったのかも)、ここまで富士山の火山灰が降ってきていたということ、富士山の噴火の時の層があるからよねとは思っていましたが、今までいろいろ寒川について調べている、知っていることを書いてくださっているブログや研究資料を読むと、富士山の噴火の時にこちらまで逃げてきて(そうじゃないかもしれないけど)、王神塚古墳のある辺、(多分ここは高台)で、寒川神社と関係の深い安楽寺があるのですが、この辺りに住んでいたのではないかと思われます。
それを思わせるのが、先ほどの富士山吉田市に寒川大明神をまつる神社(福地八幡神社(ふじやまと読んでいたらしい)があること、高座山があること(寒川神社は高座郡ですものね)。しかも土地名からするとかぶっているものがまだたくさんあります。(倉見とか)
ある程度「宮下文書」からの考察なのでしょうが、それを加えると、とても納得感が出てくるのですよ。
先ほどの王神塚古墳も、応神塚とも書くらしく、応神天皇と母の神功皇后のことにも繋がってくることが、宮下文書を見ると書かれているみたいですし。
ちょっと逸れてくるのでこの辺で、軌道修正。
もう一度、富士の明見地区(よく行くのですが)に行ってみて、福地八幡神社やその辺りにあったという安楽寺と関りのある福地山行満寺も訪ねてみたいところです。
というわけで、寒川神社の起源を駆け足で古代から戦国時代まで史料を見せていただきながら説明していただきました。
そして第二部はお祭りについて。
寒川のお祭りは大きく国府祭と浜降祭が有名です。
国府祭として、私は今までは尾張大国魂神社の国府宮はだか祭り、武蔵国大国魂神社のくらやみ祭を知っていましたが、こちらの国府祭は神揃山と大矢場という2つの祭場があり、神揃山で古式座問答をして、それから大矢場へ行き、神対面、裁許の儀、国司奉幣の儀が行われるそうです。
詳しくはこちら。
昔、寒川か川匂のどちらが一之宮かでけんかになり、それを三ノ宮である比々多神社がとりなしたという模様をずっと伝えているものなのでしょうね。
というか、今は一ノ宮は寒川神社としてもう変わることはないのでしょうが、昔から毎年、おんなじようなことが本当に行われ、それが形骸化して、祭りとして残っているのでしょう。面白いですね。
浜降祭も有名ですが、こちらはほとんど史料がないそうで、あまり説明がありませんでした。もともとはこちらもけんかで始まったことが、だんだんうちも、うちも参加したいということで神輿を出すところが多くなって、今に至るみたいです。どちらもけんかがらみ?😅
こんなところで私のざっとした復習もできました。
読んでくださった方がいましたら、長々とどうもありがとうございました。
寒川の神様、ありがとうございました。お勉強してきました。
寒川の神様は、宮下文書ではツキヨミの子、寒川姫はスサノヲの娘ということになっているそうです。
本当にはどなたかは存じませぬが、大山祇のような気もします。本殿は大山を向いていますしね。その大山という名前も後から付けられたのかなとも思います。
ほんとのことが知りたいな〜。
いつもお馬さんとお猿さんのところもお参りしますのですが、扉がぱたぱたして、なんか嬉しかったです。
では、また六月に参ります!