『暁の宇品』 堀川恵子著 講談社 2021年12月発行を読んだ。戦争とは何か、日本とは何かを考えさせられた。以下、特に印象に残った部分をまとめてみた。
1894年(明治27年)、日清戦争が始まった時、鉄道はまだ広島までしか伸びていなかった。そのため、東京の大本営は広島に移された。明治天皇は広島城で寝起きし、総理大臣、貴族院、衆議院の議員も丸ごと広島に移動した。広島には海軍の軍港として呉があるほか、陸軍の乗船基地として宇品があった。
日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など、宇品から難百万もの兵隊たちが戦地へと送り出された。兵隊を送り出す任務だけではなく、前線の部隊に軍需品や糧秣(=食料)を補充する兵站(へいたん)の任務もすべて陸軍が担った。海軍の協力を得られなかったからである。陸軍は当然船を持っていない。戦闘を行う際の基本単位は1個師団(約1万8千人)である。陸軍は戦争が起きるたびに民間から船と労働者をかき集め、日清戦争で24万人、日露戦争では109万人を宇品から大陸へと運んだ。
日本の近現代史において、point of no return(帰還不能点)となったのは1931年(昭和6年)の満州事変である。翌年、関東軍が満州国の建国を宣言。これを認めなかった犬飼毅はテロで斃れた。日中戦争で軍事予算が膨らんだ。軍事費のうち実際の戦闘に使われるのは40%で、残り60%は軍需の機械化・近代化に使用された。しかし、兵站は軽視され、船舶輸送の近代化にはほとんど回されなかった。
四方を海に囲まれた日本は平時から食料や資源の輸入を船に頼っている。戦争になれば戦地に兵隊を送り出すのも、戦場に武器や食料を届けるのもすべて船である。日本を屈服させるには輸送船や輸送基地を攻撃することがいかに有効かをアメリカは研究し尽くしていた。兵站を軽視したことが、やがて太平洋戦争において深刻な問題となった。
限られた船を、軍需と民需にいかに振り分けるか。軍需を増やせば民需の比率が落ち、輸入量が落ちて国力を保てない。その結果、鉄鋼などの物資不足が深刻になる。1938年(昭和13年)には「国家総動員法」が制定された。軍需産業に優先的に資金が投入され、鉄鋼や銅の不足を補うために、寺の梵鐘や各地の銅像、家庭のやかんまで軍需用に回収されるようになった。また、恒常的な物資不足を打開するために重要資源を東南アジアに求める「南進論」が主張されるようになった。
1939年(昭和14年)7月、宇品のトップであった田尻昌次中将は船舶不足を改善するための建白書を参謀本部、大蔵省、鉄道省、逓信省、厚生省、商工省などに送った。しかし、田尻は翌1940に発生した不審火による火災の責任をとるという形で諭旨免職(納得の上で退職を申し出ること)とされてしまった。田尻が罷免された1年半後、日本は船舶不足という致命的な欠陥を抱えたまま「ナントカナル」「ソレユケドンドン」の精神論で世界大戦へと突入する。
田尻の後、半年間上月良夫中将が宇品の司令官を務め、その後、佐伯文郎中将が赴任した。1940年には日独伊3国同盟が結ばれ、フランスがドイツに敗れると援蒋ルートを遮断するため北部仏印に進駐した。1941年(昭和16年)6月独ソ戦が始まり、日本は同年7月、南部仏印(サイゴン)に進駐した。かつての支配者フランスにとって代わった優越感はいかほどのものであったか。
しかし、これが破滅への引き金となった。次はシンガポールかという危機感が世界に広まり、アメリカを中心にABCDラインが形成され、対日石油禁止が行われた。
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃に先立つ1時間前、日本軍はマレー半島に上陸した。その69日後にはシンガポール(昭南)を占領した。日本の南方攻略作戦は無事終了した。ただし、陸軍は戦争の幕引きについては全く考えていなかった。南洋からの資源を日本に運び国力を増大させることによって「米国の戦意を喪失」させ、「講和への道を拓く」としか記されていない。
1942年(昭和17年)6月、大勝利を収めたと報道されていたミッドウェー海戦で、実は海軍は空母4隻と戦載機290機のすべてを失うという大敗を喫していた。極秘にされたが、輸送船のすべての動向を把握していた宇品の司令部は当然にすべてを知っていた。
このころ、オーストラリアとアメリカの連絡を分断するため、海軍はガダルカナル島に滑走路を完成させていた。ところが完成した2日後にアメリカはガダルカナルに1万人以上で上陸し、飛行場をあっさり占拠してしまった。海軍は陸軍に応援を要請し、この後半年間にわたって日米の死闘が展開される。
ガダルカナル島では人間の断末魔が繰り広げられていた。3万1400人のうち2万800人が亡くなった。死者の7割以上が餓死だったという。東部ニユーギニアでも死者のうち9割は餓死とされる。飢餓に苦しむ兵隊の中には群から離れて強盗団を作り、友軍から食料を奪うものもいた。
そもそも島国である日本がこの大戦争に踏み切った最大の理由は、豊かな南方資源を国内に輸送して国力を回復させるためだった。しかし、船が圧倒的に不足していたため、実際には前線部隊に食料を届けることもできず、南方物資を還送させることもできなかった。
中でも輸送に従事した船員は「軍人、軍馬、軍犬、鳩、軍属」と言われ、鳩以下の扱いを受け、陸上では邪魔者扱いされ過酷な仕打ちの中で死んでいった。ガダルカナルで戦った22歳の小尾靖夫少尉は日誌の中で「生命判断」として次のように書いている。
立つことのできる人間は・・・・寿命は30日間
身体を起して座れる人間は・・・3週間
寝たきり起きれない人間は・・・1週間
寝たまま小便をするものは・・・3日間
もの言わなくなったものは・・・2日間
またたきしなくなったものは・・明日
ルーズベルトは太平洋戦争がはじまると直ちに「無制限作戦」を発令し、輸送船を次々に沈めていった。島国日本を兵糧攻めにしたのである。戦地の兵士だけではなく、日本国内で生活する人々への配給も日に日に減っていった。周りを海に囲まれた日本は、船舶なくして作戦は成立しえない。船舶の喪失量が多くなるにつれて、国内の生産活動、戦力は衰え、ついには足腰が立たなくなるまでに打ちのめされてしまった。
ポツダム宣言を受け入れた後、外地には陸軍315万人、海軍30万人、一般邦人200万人、計545万人がいたが、彼らを連れて帰るのもまた船である。しかし、宇品に残されていた船舶はわずか8万総トン。船はアメリカに頼らざるを得なかった。
著者はあとがきで、「船舶による輸送力の確保は決して過去の話ではない。」「資源をほとんど海上輸送に依存する日本にとって、それは平時においても国家存立の基本である」と書いている。宇品は近年再開発が進み、重大な軍事拠点があったことを思わせるものは何も残っていない。