南英世の 「くろねこ日記」

英語教育論争史

 

40年ほど前、短期間ながら高校で英語を教えていたことがある。英語のほうはもうすっかり忘れてしまったが、それでもこの種の本を見るとつい手に取ってみたくなる。簡単に内容を紹介すると以下のとおりである。


 明治前期の英語教育の目的ははっきりしていた。西洋文化を取り入れるために、西洋文献の正確な訳読が求められた。まともな辞書も文法書もない中で、「原生林を切り拓くような難行苦行」が展開された。「哲学」「存在」「意識」「概念」「社会」「個人」「恋愛」「定義」「帰納法」といった新たな訳語が創造される一方、斎藤秀三郎や山崎貞らによって文法書が整備されていった。文法は「闇夜を照らす光明」であった。

一方、日本の経済発展とともに「実用的な英語」の必要性を求める声が高まった。そして会話を通じて自然に文法を身に着けさせるナチュラルメソッドが主張された。幼児は5~6歳までに約3万時間の母語に接し、かなり話せるようになる。しかし、日本での中・高の英語の時間は1000時間足らずしかない。それに大人に幼児の真似をさせるナチュラルメソッドは方法論的にも問題がある。

そもそも、日本人にとって英語は難しい言語である。欧米人にとって難しい言語はアラビア語、中国語、日本語、韓国語であり、習得には2200時間が必要とされる。一方、欧米人にとってやさしい言語はフランス語、スペイン語、イタリア語であり、600時間~750時間もあれば習得できるとされる。逆に言えば、日本人が英語を習得するには欧米人がフランス語を学ぶ3~4倍の努力が必要ということになる。

しかも、日本人にとって英語は日常生活に必要がないうえに、学習動機も学習時間も不十分である。大学教育ですら自国語で足りる。だから苦労して学んでもなかなか実用水準に達しない。

そこから「為しても出来ざることは始めより為さざるに若かず」という発想が生まれてくる。英語に費やす膨大な学習時間をほかの学習時間(たとえば日本語で自由に発言できることや民主主義を学ぶ時間)にあてたほうが有意義ではないか。英語は選択科目にして必要とする5%程度の人が学べばそれでいいのではないか。

何のために英語を学ぶのか。実用的価値か、それとも教養的価値か。会話重視かそれとも文法重視か。早く英語教育を始めれば効果が高いのか。なぜ英語だけなのか。100年前からの論争はいまだに決着がついていない。(以上要約)

昔、高校生に英語を教えていた時に生徒から言われた言葉がある。

「センセー、おれ等英語なんか知らなくても生きていける」

返す言葉がなかった。

英語を学ぶ意義を説得力を持って説明することができなかったのである。

結局社会科教師になった。

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