9月に中国ドラマの面白さに目覚めて以来、王女未央、武則天、瓔珞、ミーユエ、始皇帝烈伝、大漢風(項羽と劉邦)、蘭陵王などを見た。全部合計すると400話にも及ぶ。1話50分とするとゆうに300時間を超える。
中国ドラマを見ていると、儒教の影響が非常に強いのがわかる。ミーユエの中では諸子百家が激論を戦わしている場面が出てくるし、始皇帝では焚書坑儒のシーンがある。また項羽と劉邦の争いで劉邦が天下を取ることができたのは、劉邦に「徳」があったからだと描かれていた。ともかく、先祖崇拝、御家第一は中国ドラマの底流を流れる思想であり、それは紛れもなく儒教の影響によるものである。
ところで、儒教とは孔子を始祖とする思考・信仰の体系であり、その学問的側面から儒学、思想的側面からは礼教と言われる。しかし、論語と儒教・礼教の間には簡単には埋まらない溝が存在するように思われる。
そもそも『論語』は「巧言令色、鮮なし仁」「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」「利によりて行なえば怨み多し」などの言葉に見られるように、人生の指南書である。そこに宗教臭さはほとんどない。その後、孔子の死後約四百年かけて孔子と高弟たちの言語録は『論語』にまとめられた。
戦国時代にあっては「徳」による政治を語る儒学など非現実であり、それゆえ始皇帝は法家の思想を重視した。しかし、何でもかんでも法律で裁くという始皇帝のやり方は厳しすぎて失敗した。
劉邦は天下を取ったものの、もともと田舎者の無頼漢である。彼の天下取りに貢献した将軍や大臣も同様に無頼漢であった。だから、劉邦が皇帝になった後も彼らには臣下という自覚はなく、宴席では昔の手柄話を競い合い、乱暴狼藉を働いた。
これでは皇帝の権威が成り立たない。そこで劉邦は、朝廷の儀礼を整えるためにそれまで大嫌いだった儒学を取り入れた。儒学が初めて政治権力に食い込んだ瞬間である。その後、儒家の思想が「儒教」として成立したのは、孔子が亡くなって300年以上もたった前漢の武帝の時代である。董仲舒によって儒学が正統教学として献策された。皇帝の絶対的な権力を正当化し、皇帝の権威を高めて強力な中央集権国家体制を築くためのイデオロギーとして儒教が国教となったのである。わかりやすく言えば、論語は「人生の指南書」から「権力に奉仕する御用教学」となったのだ。儒教による支配はその後、清朝末まで約2000年間続く。
権力に奉仕する学問としての儒教は、民衆の救済には役に立たなかった。だから、仏教や権力から距離を置く道教が人々の間に浸透したことは容易に想像できる。
そして約1300年後、儒教は南宋の時代に朱熹によって朱子学として新たな役割を担うことになる。「理気二元論」という哲学でいう「存在論」を取り込んで、朱子学が再び国家的イデオロギーとして独占的地位を確立したのだ。そして、その後500年以上にわたって中国の思想を支配することとなる。
こうしてみてくると、論語の「人生の指南書」という性格は、国家権力に都合のいいようにつまみ食いされ、儒教や朱子学として新たな衣をまとい、孔子の考えとは似ても似つかぬものとなったことがわかる。
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