西部戦線が膠着状態になるとイギリスもドイツも情報戦を展開し、状況を打開しようとした。
1.イギリスの情報戦
イギリスは、ドイツ側にたって参戦したオスマントルコを内部から切り崩すために軍人ロレンス(アラビアのロレンス)を送り込んだ。そして、アラビアの名門ファイサルに近づき「オスマン帝国を倒せばアラブ人の国を作る」と約束した。
しかし、イギリスはアラブ人の国家を作る気はさらさらなく、1916年、英・仏・露の間でオスマン帝国の分割を約した秘密協定(サイクス=ピコ協定)を結んでいる。
さらにイギリス外相バルフォアは1917年に、ユダヤ人の資金協力を得るためパレスチナにユダヤ人の国家を作る旨を記した書簡をロスチャイルド卿に送っている(バルフォア宣言)。こうしたイギリスの無責任な三枚舌外交が、今日のパレスチナ問題を解決不能なものにする一因となっている。
その一方で、イギリスはアメリカ参戦を企てた。イギリスは戦費の多くをアメリカのウォール街(ユダヤ系資本を含む)から調達しており、もしイギリスが敗れればウォール街は貸し付けたお金を回収できなくなる。ウォール街はウィルソン大統領に参戦を促し、大統領もこの要求を受け入れざるを得なかった。「大統領はウォール街のセールスマン」といわれるのも故ありというべきか。
2.ドイツの情報戦
一方、ドイツも負けてはいない。ロシアのロマノフ王朝を倒すために、スイスに亡命していたレーニンを秘密列車でロシアに帰国させ、ロシア革命(1917年)を起こさせた。レーニンは直ちにドイツに降伏をする。その後のロシアでは、ロマノフ王朝の残党とレーニンが率いるボルシェビキとの間で内戦が展開され、その過程で王朝側は約10万人のユダヤ人を虐殺した(ポグロム)。ロシアに700万人いたユダヤ人はアメリカとパレスチナに逃れ、そこで強力なユダヤ人社会を形成することになる。
3.ベルサイユ条約
1918年にドイツが降伏し、ベルサイユ条約が結ばれて第一次世界大戦は終わった。この条約でドイツは1320億金マルクという当時の国家予算の20年分にあたる損害賠償を背負うこととなった。とてつもない賠償を主導したのはウォール街のモルガン商会であった。イギリスに貸し付けた資金の回収をするためである。
一方、大戦終了後フランスはアラブへの攻撃を始め、ファイサルは見捨てられアラブの独立は認められなかった。