ところが、先日、哲学専門の先生からこんな話を聞いた。「哲学の根本は目に見えるものを信ずるか、信じないかです。だから、現代の哲学も、元をたどればプラトンとアリストテレスに帰着します。」
これを聞いてなるほどと思った。プラトンは目に見えるものを信じないで、本物の存在はイデアであり、現実のものはそのコピーだとした。いくら三角形を描いてみたところで、それは真の三角形ではない。太さもない線分を鉛筆で描くことなど不可能だ。リンゴ1個、2個と数えることはできても、それは1,2という真の姿ではない。1とか2はたしかに存在するが、それは形としてあらわしたとたんに、本物ではなくなる。
一方のアリストテレスは、個物から出発し、すべては材料である「質料」とその設計図である「形相」からできていると考えた。個物の前に抽象的なイデアなどは存在しないとして、イデア論を否定した。
(大陸合理論はプラトンの流れ)
近代に入ってデカルトは、感覚というものは当てにならないとして、目に見えるものを信じなかった。まっすぐな棒を水に入れると、光の屈
折で曲がって見える。太陽は東から昇って、西に沈む。上り坂が下りに見える坂道錯視などは、感覚が当てにならない典型例だ。だから、デカルトは理性を働かせて真理を発見する必要があるとして演繹法を主張した(大陸合理論)。
(下り坂の向こうに緩やかな上り坂が見えるが、実はこれも下り坂である)
(イギリス経験論はアリストテレスの流れ)
一方、ベーコンは、目に見えるものを信じた。いろんな種類のカエルを集めてへそがあるかないかを調べたら、すべてのカエルにへそがなかった。だから、カエルというものにはへそがないという法則(=真理)が当てはまる。いわゆる帰納法である(イギリス経験論)。
(カントは合理論と演繹法を統合)
この二つの潮流はやがてカントに引き継がれる。カント以前の合理論は、人間の知ることができる限界を設けていなかった。理性を究めればいつかすべて分かるだろうというものである。これに対してカントは、「それは傲慢だよ。人間が知ることができることには限界があるよ。神とか霊魂とか宇宙の果てといったものはとらえることはできないよ」と合理論の暴走にストップをかけたのである。
一方、イギリス経験論は、感覚のみを頼って理性の妥当性を疑っているとして、これも間違っているとした。
こうして
「すべての哲学はカントに流れ入り、カントから流れ出す」
といわれるようになった。
(実存主義はアリストテレスの流れ)
一方、デカルトからヘーゲルまで「客観的真理」を追究してきたのに対し、それに反旗を翻したのが実存主義だ。
キルケゴールは、世間一般に通用する冷ややかな「客観的真理」ではなく、現実に生きている自分そのものを支えてくれる「主観的真理」が大切だと主張する。「私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要だ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう」と、22歳の時に書いた日記に記している。これは、目に見えるものを信じる立場だといえる。
また、同じ実存哲学でも、ニーチェに至るとさらに目に見えるものを信じる立場(=目に見えないものを信じない立場)が鮮明になる。当時のヨーロッパで2千年間支配していたのはキリスト教である。キリスト教は、現実の世界に対して「真実の世界」を想定して超越的なところへの「救済」を説く。しかし、ニーチェは、客観的世界など存在しないと主張し、キリスト教を批判する。つまり、プラトン以降連綿と受け継がれた西洋の形而上学を否定するのである。
現代思想になると、まだまだ私も理解できない部分が多いが、「目に見えるものを信じるか、信じないか」というのは、一つの切り口としてはおもしろいのではないだろうか。