「他力本願の他力とは「仏力」のことである。ところが、私ども僧侶が説法をさぼってきたために「他力本願」は他人の力の意味で使われるようになってしまった。僧としてまことに申し訳ない。」
「800年前の悪人というのは、仏と比較してのことだから人間皆悪人(=アホ)だ。ところが、今は悪人の基準は法を守っているかどうかになってしまっている。死んでも千の風にならない。菩薩になるのだ。墓の下に眠っているのではない。浄土に行っているのだ。人間は皆自己中で、自分が正しいと思っている。だから争いがなくならない。仏教では愛は地球を救わない。愛国心が戦争の原因になってきた。」
実にわかりやすい。歯に衣着せぬ物言いは、聞いていてすかっとした。
当時の仏教は圧倒的に比叡山(天台宗)の教えが強かった。比叡山では仏になるためには、経を唱え、座禅をし、山を駆けめぐるなど、自力であらゆる修行を実践しなければならなかった。浄土へ行くために貴族たちは、寺を建て、寄進をし、仏像を作った。貴族たちは、人間には聖人と凡夫があると考えていた。
比叡山に修行をしていた親鸞は、修行をしても煩悩を抑制できない自分に苦しみ、29歳の時ついに比叡山を下り、そして69歳の法然と出会う。他力本願によって悪人も浄土に行けると説く法然や親鸞の教えは革命的であり、貴族たちにすれば「非常識な教え」「トンデモ論」であったに違いない。
ヨーロッパで人間が平等であると最初に説いたのはルターであるが、日本ではその300年前に法然、親鸞が仏の前の平等を説いていることに改めて驚いた。
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