2009年に裁判員裁判制度が導入された。当初の狙いは「職業裁判官だけではものの発想力に欠け市民感覚からずれる恐れがある。司法に一般国民を参加させることによって、司法に対する国民の理解を増進させ、その信頼性を向上させること」とされた。事実、授業でもそのように説明してきた。
ところが、最近、裁判員裁判の導入にはもう一つの隠された狙いがあったことを知った。裁判は稀に誤審が生じる。とくに死刑判決が再審で無罪になると国民の批判の矛先は職業裁判官、とりわけ最高裁判所に向けられる。そうした国民の批判をかわすにはどうしたらいいか。
そこで導入されたのが裁判員裁判制度だというのである。仮に誤審が生じたとしても、判断した人たちの中には国民もいる。だから裁判官だけが批判を受けるということはない。つまり、裁判所の責任逃れの方便として導入されたというのである。
もちろん、アメリカの陪審制度のように市民だけで有罪・無罪を判断するわけではない。また、高裁、最高裁に市民参加はない。だから、完全に誤審の批判を回避できるわけではない。しかし、司法に市民を参加させることによって、裁判所が国民から激しい風圧にさらされる事態を緩和することはできる。
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ウーン、世の中には賢い人がいるものだ。
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