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江戸文化 歌川広重 {4}

2009年07月12日 11時00分22秒 | ビンちゃん
        葛飾北斎の冨獄三十六景         広重の冨士三十六景

広重に大きな刺激を与えたのは葛飾北斎の「富獄三十六景」と云われています。

広重は北斎より37歳年下で浮世絵、風景画の双壁であり時期も20年重なっている事

もあり何かと比較され、北斎と共に花鳥画を独立した錦絵として定着させた最初の

錦絵師であり、二人は画風も性格も好対照でした。

広重が一遊斉を一幽斉と改名したのは天保2年(1831)35歳の時でその動機は

師豊広の死(文化11年)によるものと云うよりも風景画えの転向によるものと云わ

れています。その年の「東都名所」が風景画家としての地位を確立した。

「東海道五十三次」は広重の出世作で大好評でした。

「東海道~~」を描かれたのは次の様な原因があったと云われている。

天保三年(1832)幕府から広重に、京都で ・八朔御馬献上・の儀式を拝観し、

その様子を描くよう内命。その旅の様子が「東海道~~」の38.藤川宿が御馬献上

の行列を描いたものでこの行列に加わって京都に上がり長い期間滞在し、その間

色々と見聞を広めしかも往復の道中、相当数の写生をし、それを基礎とし自分の

創意工夫を加え不朽の名作とした。自分の生き方の方向を決めた大きな旅であった

のではないかと、現在のところ全行程を同行したかどうかはわかっていない。

広重は「東海道~~」の発表によほど決意を持っていたのか今迄の一遊斉から又々

一立斉と改名した。これは一流一派を立てた事を意味したのです。

広重の作品は「東海道~~」を振り出しに「江戸近郊八景」

      「近江八景」天保5年   「東都名所」天保3~5年

      「木曾街道六拾九次」天保後期に英泉と合作

      「名所江戸百景」安政3年~5年

江戸の風景は広重の人生と密接な関係にあった。それほどまでに江戸が好きだった

広重はやはり江戸っ子であり御家人であったのでしょう。

安政五年(1858)九月六日、当時江戸で流行していた虎烈拉(コレラ)にかかり

死亡、時に62歳でした。遺言に 「寺は浅草岳寺に納むべし葬式は武家風にいたす

べし」 とあり御家人安藤徳太郎の面目が表れている。遺言どおり浅草東岳寺に

ほおむり法名を「奥全院岩松栄信士」          byビンちゃん