2016年百済訪問時、京城ソウルでの渋滞。
難波の宮 古代史 年表 -2017年作-
-追記校閲中-
難波の宮ッテ? 事件の後、少し古代史をインターナットなどで調べて、古代日本にとって 朝鮮 唐との関係が大きく影響していると感じました。
2017年 再度年表を見直し、探訪した経験を元に、改めて作って見たいと思いました。
ますます気になってきたのが、白村江の戦いの後、日本はどうなったかです。 主に、唐人 郭務悰(マッカーサ)関連を重点的に追記します。
因みに、この時代の年表は、学校で習った記憶がありません。
私は、定年後、古代史に興味を持つまでは、まるで想像だにしない歴史でした。後生の日本人から、歴史的事実を恣意的に隠したのではないかと思えるほどです。
年表の完成をご期待ください。
年表 最後 778年の内容に、驚愕しますよ!!
645年 乙巳(イツシ)の変:
6月12日 朝鮮の三韓(新羅、百済、高句麗) 調の儀式で 実質的最高権力者の
蘇我入鹿を、飛鳥板蓋宮で惨殺 権力を天皇家に奪回(大化の改新)
新羅、百済、高句麗はそれぞれ争っている仲で、本当に一緒に来たのか?
6月13日 蘇我蝦夷 自宅に火を放し、自害。
6月14日 皇極天皇退位、弟 軽皇子 孝徳天皇即位
中大兄皇子 即位辞退、軽皇子を推挙により、孝徳天皇即位
中臣鎌足(藤原鎌足)を内臣に登用
大海人皇子 不明(幼少の為?)
難波長柄豊崎宮へ遷都 (前期 難波の宮)
646年 「645年を大化とする改新の詔」 発令
日本における年号の始まり。
647年 新羅から、金春秋 後の新羅王 武烈王が質として来訪。
後世の我々に、いろいろな物語を連想させてくれるよね。
649年 新羅より派遣史
唐・新羅連合の 百済攻撃を説明の為か?
派遣史を追い返す。
誰が? 追い返したのか?
朝鮮半島の緊張状況が日本に伝わる。
あれー、ところで、金春秋はどうしたの?
651年 左大臣 巨勢徳多 中大兄皇子に新羅征伐を進言。
中大兄皇子 進言を拒否
情勢が掴めない状態で、巨大な唐を敵に廻すことはできなかったんだろう。
652年 宮殿完成{その間何処で?}
その出来栄えは 「言葉に出来ないほどの威容」(日本書紀)
653年 654年 2度の 遣唐使派遣
必死の情報収集、宮廷内の緊張感が見えるようだ。
654年11月 孝徳天皇へ 中大兄皇子が 飛鳥への遷都を進言。
孝徳天皇 遷都を拒否、難波の宮に置き去り
新宮完成からたった2年 (何があった?)
遷都を急いだのは、朝鮮半島緊張と考えるのが常識的だろう。
難波宮から着く船が望めるほど、港に近く防備に不安があったのだろう。
中大兄皇子 飛鳥へ、中臣鎌足、その他重臣の大半を従え飛鳥へ。
大海人の皇子 追従
12月 孝徳天皇 死去?(病死と伝えられる)
655年 1月 孝徳天皇の姉 元皇極天皇
飛鳥板蓋の宮にて斉明天皇即位(重祚)
658年 有馬皇子(孝徳天皇の皇子) 謀反の疑いで、処刑。
660年 唐・新羅連合軍 百済を占領
百済遺臣より 救援要請あり。 中大兄皇子これを承諾。
661年 三度にわたり 延べ4万2千人 船舶800隻以上 百済救援に派遣
6月 新羅王 武烈王(金春秋)高句麗へ出兵中 陣中で病死。
(暗殺説あり)
7月 斉明天皇 総指揮官として 九州行幸中 崩御(暗殺説あり)
同行 直系息子 中大兄皇子、大海人皇子。
中大兄皇子 斉明 天皇 崩御後直ぐ天皇に即位せず、
事実上の天皇として指揮を執る。(称制)
663年 白村江の戦いで、倭・百済連合軍 唐・新羅連合軍に歴史的惨敗。
エライコッチャ、倭国(日本)の存亡の危機だ!!
当時倭国の精鋭4万2千人の軍隊が全滅したということは、
7世紀 日本の人口約450万人~550万人、今の日本 1億2千万人
単純換算 22倍として、90万人の軍隊が潰滅した事になる。
今の自衛隊は確か27万名ぐらいだから、正に無防備の状態に陥った。
九州の有力豪族 筑紫の君薩夜麻(倭国の王、太宰府長官、九州王朝説)
百済で捕虜となり、8年間唐に拘留される。
664年 5月 唐からの派遣使 郭務悰 到着
百済を占領統治した唐軍の将 劉仁願の指示で来訪
キター! 九州に留まっていた? やはり近畿へ?
大唐の大きな船で来たのだろうから、そのまま、難波津へ?
5月 蘇我の連大臣が亡くなった。
10月 朝廷は郭務悰らを送り出す勅をお出しになった。
鎌足は遣いを出し、物を郭務悰に賜った。さらに
郭務悰らに饗宴を賜った。
この言葉の裏に、飛鳥の宮付近までは来ていたというか?
この、5月から10月までの5ヶ月間が、敗戦後の日本を決めた!!
12月 郭務悰らは帰途についた。
返送案内人として、大石らを大唐に遣わした。
(見張り役だな!)
664年 九州筑紫に 防衛城 水城(ミズキ)建築
東国各地から 防人(さきもり)徴用
665年 瀬戸内海に、大野城(福岡県大野城市)、
基肄城(佐賀県基山町)、長門城(山口県) 他 古代山城築城
2月 間人大后(はしひとのおおきさき 孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)亡くなる。
9月 唐から正式使者 郭務悰ら来日
計254人 GHQがやって来た!!
12月 唐の正式使者 劉徳高の帰国
帰国時、日本から送唐使を随行派遣 (人質?)
御免なさい、お助けください。何か見返りを提供したんだろうな?
あれっ? 郭務悰は? 記載無し。
当然居残って、日本統治を本格化?!!
何処に? 飛鳥の宮に近い場所 想定;難波の宮の迎賓館などか?
666年 1月 高麗(高句麗)が、調をたてまつった。
耽羅(たんら 済州島)が、来朝した。
6月 高麗使者が帰途についた。
667年 2月 斉明天皇と間人皇女とを、陵に合葬。
高麗(高句麗) 百済 新羅の人々が葬送の道中に発哀した。
3月 飛鳥の宮から近江大津京へ遷都
唐・新羅連合軍が怖くて、派遣使(占領軍)が怖くて、より内陸に避難?
667年 11月 唐から正式使者、唐の統治国百済から来訪。
日本側の使者を、九州に送り返してきた。
唐との関係が好転したか?
同月 正式使者 帰途に就く。
668年 正月 中大兄皇子 天智天皇即位
668年 4月 唐の統治国百済から使者派遣
同月 使者は帰途に就く。
5月 天智天皇 蒲生野で遊猟。
あの 額田王姫の「---君が袖振る」の恋歌の宴。
緊張が少し緩んだのかな?
7月 高麗(高句麗)が越の道(北陸 日本海経由)で調をたてまつった。
9月 新羅の王(文武王)に調を一船分賜った。
10月 大唐の将軍 英公が高麗(高句麗)を、討ち滅ぼした。
11月 新羅の王に調を賜った。
高麗(高句麗)が滅び、頼りは新羅のみ。
669年 遣唐使派遣
まだまだ、必死だ!
669年 中臣鎌足 死去 (暗殺説あり)
669年 大唐が郭務悰ら2000余人を遣わしてきた。
キター! 進駐軍の本隊が。現代に換算して、4万人以上
帰った記載無し。
671年 正月 唐が李守真を使者として派遣して来た。
2月 唐の統治国百済から使者派遣
6月 唐の統治国百済から使者派遣
7月 李守真、百済の使者ともに帰途。
9月 天智天皇病にかかられる。
10月 大海人皇子 譲位を断り、吉野へ。
11月 唐国 郭務悰ら600人、百済送使1400人 船 47隻で
九州に到着。同乗で筑紫の君薩夜麻 九州に帰る。
わざわざ記載された、筑紫の君薩夜麻が気になります。
唐に抑留中に洗脳され、唐の手先にされたのかも?
12月 天智天皇 急死 (暗殺説あり)
671年 月不明(調べたのですが解りませんでした。)
新羅 文武王 唐軍を、旧百済領から一掃、朝鮮半島の覇権を握る。
672年 3月 近江朝は筑紫に遣いし、天皇崩御を
郭務悰に告げた。
郭務悰らは、喪服を着け、三度挙哀の礼を行う。
この時は、筑紫に居たんだ。
5月 郭務悰らは甲・冑・矢や貢物を賜り、帰途に就いた。
6月 壬申の乱勃発
大海人皇子派の圧倒的軍勢で、相手方を殲滅。
急遽挙兵した割には、圧倒的な兵と軍備を揃えられたものだ。
まるで郭務悰の帰国を待っていたような日程。
672年 天武天皇 即位
即位後、天武天皇崩御までの14年間、遣唐使無し。 何故に?
唐と新羅が 朝鮮半島の覇権で関係悪化。両国から 通交を求められ、
天武天皇は、新羅との関係を重要視した。?
新羅との使者のやりとり活発化。
675年 諸王に武装義務付け。
676年 筑紫太宰府 長官 土佐へ流刑。
この長官が 筑紫の君薩夜麻 なのか?
681年 古事記、日本書紀の編纂を命じる。
683年 天武天皇 飛鳥の宮と共に 難波を宮とする。(復都政)
686年 1月 難波の宮 全焼
686年10月 天武天皇 崩御
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778年 奈良時代 宝亀9年 光仁天皇在位中
遣唐使が、唐の使者を伴って帰朝した。
正式な唐使は、舒明天皇在位時 632年以来、実に150年ぶり、
対応に右往左往。
「どうしたら、よいのだ?」
つまり、667年 5月に郭務悰が、帰唐して106年ぶりの
正式な唐使者。
この時の、奈良時代の朝廷が取った対応。
唐使に対し、天皇がその御座を降り、南に位置を変え、北面し
唐使を北に位置し南面する位置に配した。
つまり、天皇は、唐使にたいし、臣下の意を、示されたと言うこと。!!
その場の臣下は、高座を降りた天皇の姿に対して、
「ああ痛きかな」「墳鬱のおもいに耐えず。」
そうか、これが663年「白村江の戦い」で惨敗した結果なんだ。
とても辛い想像なのですが、時の天皇、天智天皇は、同じく、
唐使 郭務悰に、臣下の礼を執ったのでしょうか?
自分に都合が悪い事は書かない、「日本書紀」。
ムッムザン(663年)「白村江の戦い」
ちなみに、この時の 光仁天皇(49代)は、
天武天皇系の最後になった、あの巨根 弓削の道鏡 事件の、
称徳天皇(女帝 48代)の次に、天智天皇系を復興した
天皇です。
桓武天皇(50代)の先代 実父。
桓武天皇は平安京への遷都をされた天皇。
794年 平安京遷都と、日本史で習ったよね。
そして、今の天皇が韓国と日本の共同開催になった、
サッカーワールドカップの開催年に、記者会見で、突然、
「桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫であると、
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを
感じています。」と発言され、同席の記者たちを
凍り付かせた、その名指しされた、 桓武天皇です。
つまり、父親 光仁天皇は百済系の女性と解って、
女房にしたわけだ。
その御代に、唐から正式な使者が遣ってくる。
巡り合わせ、歴史って面白いなあー!
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◎ 古代史 のんびり散歩 スタートページ です。 (新作順表示) ◎ 目次ページ (創作順表示) ◎ 「難波宮ッテ?」 古代史感のすれ違い メイン ブログです。
すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。
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