続「壬申の乱」を訪ねて 2日目
平成27年8月15日
天武天皇・持統天皇合葬陵 参拝
朝食はサンホテル大和郡山のモーニングサービスで済ませ。飛鳥の天武 持統陵へ愛車のホンダLIFEで向かいました。
飛鳥に何ヶ所かある、レンタルサイクル場併設市営駐車場に止め、自転車を借りて。
残念ながら、私は自転車が使えないので、歩くことに。
私が自転車を使えないのは、子供のころ、貧しかった我が家では
自転車を買って貰える余裕など、なかったからです。
その当時は(戦後すぐは)貸し自転車屋さんというシステムがあって、1時間5円とか、10円で借りれたんですが、
借りる小遣いも貰えなかったからです。(極貧家庭)
市営駐車場のレンタルサイクル係りをされている、年輩のおじいさんに、
「天武天皇 持統天皇の陵はどの方向でしょうか?」
「あっ、それでしたら、ここから見えるあの丘の向こう側です。」
「えっ!、歩いて行かれるんですか?」
「えーぇ、自転車に乗れないもんですから。」
「それは大変ですね、そうゆう方はたまにおいでになりますね。」
「今日は暑くなりそうですから、気を付けて下さいよ。」
「有り難うございます。行ってきます。」
しかしこの日は、本当に残暑真っ盛り、「暑い、アツイ」((((゜д゜;))))
駐車場で貰った、パンフレットの地図を頼りに、20分ほど歩いていくと、
小高い丘があり、そこが天武天皇持統でした。
印象的には、前日参拝させて頂いた、天智天皇陵と比べ、随分と開放的で、明るく感じられました。
観光客もちらほらですが、おいでになりました。カップルが多いようでした。
天武天皇持統天皇陵へ登る階段の前に、案内板がありました。
この案内板には、この陵が武家の時代(鎌倉時代)に、盗掘され、
その折に盗掘者が、中の構造図を書き残しており、貴重な資料となっているようです。
(泥棒は泥棒やろ。)
その記録に、天武天皇 埋葬用の石棺と、その横に、金銅製の骨蔵器があったとのこと、
泥棒は、貴重な骨蔵器を盗み、その中にあった、火葬された灰(持統天皇の遺灰)を棄てて逃げたとのこと。
勿論、その他の金目の、埋葬品も持って逃げたのでしょう。
どうも、1192年(イイクニツクロウ鎌倉幕府) 以降 武家の時代になって、
それまでの支配階層である、貴族や公家にたいする反感か、
歴史物に対する尊厳が疎んじられだした、又は、忘れ去られたようですね。
まあ、持統天皇が亡くなられたのは、703年。
盗掘されたのが、1235年 だから、533年も 経っていたからね。
今で言うと、今年は 2015年だから 530年前は 西暦1475年、
えーと? 日本は室町時代、正に戦国時代まっただ中、全然想像できないし、
何が大事で、守らなければならないか、なんてまるで、印象無いよね。
恐らく、墓荒らしには何の罪の意識も、無かったんだろうな。
まあ、京都の人が、「この前の戦いの時に```」と言われる、戦いは、第二次大戦ではなく、応仁の乱1476年何だけけれどね。
例えば、大人からよく聞かされた、昔話の「花咲爺さん」のお話で、
ここ掘れワンワンで、掘ったら、金銀財宝が、♪ザック ザック ザックザク♪ と出てきた。
やあ目出度し目出度し。
でもそこは貴重な古墳だったんじゃないの。
何の理由もなく、金銀財宝が埋まっているはずはないよね。
古墳が小高い丘の上にあるので、とても見晴らしがよくて、長い階段を登ってきたことを忘れさして貰えました。
天武天皇は当時の習慣で、土葬され、石棺で埋葬。
持統天皇は当時としては非常に珍しい火葬で、灰を金銅製の骨臓器に入れて、
天武天皇の死後 17年後、愛する夫の横に、
彼女の遺言通り、同じ陵の中に、寄り添うように埋葬された。
陵を造るとき、初めから、いずれ自分が亡くなれば、
愛する夫の隣に葬られるように、石室を二人用に大きく造られていた。
でも何故、火葬で灰にして、愛する人の遺体の隣に?
天武天皇 686年崩御 崩御時 持統天皇 42歳
17年後 持統天皇 703年崩御 崩御時 59歳
愛する夫に 59歳の、自分の老いを見せたく無かった。
額田王姫や、多くの婦人を蹴落とし、夫 天武天皇を自分だけのものに出来た、
自尊心から、夫に、59歳の老いた自分は決して見せたくなかった。
凄い、やっぱり私の女房と同じに、女は怖い。チャン チャン ((+_+))
天武天皇持統陵の付近には、いや、付近は古墳がとても多く、いわゆる古墳地帯です。
持統天皇は安心して、ここに夫を埋葬した。
のんびりと、付近の史跡を探訪しました。
古墳群 鬼の雪隠
本来は、土で覆われた、古墳であったが、土が除かれ(人為的?)棺を納めた石室が露出し、あたかも、雪隠のごとき様相を示しています。
家族連れが、楽しそうに、レンタルサイクルで、見学。
吉備姫王墓
吉備姫王墓の中には、とても面白い、抽象化された、動物? が多く並べられており、とても興味を覚えました。
欽明天皇陵
散策、2時間 最初の、駐車場に帰り着きました。
管理人さん「お帰りなさい、ご苦労様。」
「有り難うございます、暑かった。」
唐古 鍵遺跡
国道 24号線沿いにあり、いつも通り過ぎるだけだったのですが、サンホテルへの帰り道、今日は見学してみました。
とても、面白い形の建屋が再現されており、??? 興味が沸いてきました。
又勉強し直して、みたいと思うことが増えました。
アンナ(むすめ)とのLINEでのやり取りです。
「今日は(8/14)飛鳥探索中、車を駐車場に止め、天武天皇持統天皇陵に参拝。歩行2時間暑い、疲れた。」
「昨日は(8/13)京都山科 天智天皇に参拝。」
「前回は台風6号で暴風警報、昨日は台風15号くずれの雨、祟りか?」
「こっちは雨降ってないし涼しいけれどねー。」
「奈良探訪いいね!」
「蒲生野 茜さす紫野 散策 君が袖振る。
帰り道、瀬田の唐橋を横目で、瀬田の大橋で、雨に滑って 追突事故。
タタリジャー」
「なんか祟られるようなことしたの? (笑)」
「壬申の乱をテーマにしてからおかしい。」
蒲生野原の、大海人皇子と額田王姫とのやり取りのパノラマ壁画
「優雅だね!」
額田王姫と大海人皇子の歌碑
パノラマ壁画解説
「だって万葉集でしょ、優雅じゃないか。」
続「壬申の乱」を訪ねて 3日目
平成27年8月16日
弘文天皇陵(大友皇子陵) 参拝
祟りの恐怖から、急遽 大津宮の近くにある、弘文天皇陵に参拝しました。
大津市街から、大津の宮へ行く途中にあり、分かりにくい処にありました。
宮内庁が明治10年に指定したそうで、それまでは数カ所の此処だとの言い伝えがあったようで、確定していなかったようです。
と言うことは、継体天皇天皇の今城塚古墳のように、後から実は本当は此処ですと言うことになるのかな。
でも、戦いに負けた責任者の墓を誰が造ってくれるでしょうか? しかも、大津の宮の近くに。
此処で気になっていたことなのですが、大友皇子が弘文天皇に本当に即位していたんでしょうか。
この後、天武天皇系は三代で、血筋が途絶え、その後又、天智天皇系が天皇に返り咲くのですが、後の世に、天皇家の菩提寺である、京都の泉涌寺には、天智天皇から今に至る、天皇のお位牌が納められているのですが、天武天皇系 三台のお位牌は納められていないそうです。
まだまだ、謎は多いですよね。(・・?
これで今回の、参拝の紀行は終了です。
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