5日前にブログを始めて、これで4つ目の記事になる。
今のところすべて「若者」についての記事だ。
そして今回も、なぜ私は若者のことばかり書くのか、ということをテーマにしようと思っているので、つまりこれも若者についての記事ということになる。
それにしてもなぜ私は若者のことばかり書くのだろう。
私自身が若者だから当たり前といえば当たり前かもしれない。
例えば40、50歳代の社会的引きこもり問題とか、老老介護の問題などは、社会問題として詳しく知っておくべきことだが、実感を持ちやすいのはやはり歳の離れた世代よりも同世代のことだ。記者や地方自治体の職員、あるいは民生委員での業務や奉仕活動でもない限り、そういった社会問題について情報を多く持っているのは別世代よりも自分と同じくらいの世代の方が多い。
だから私が若者について書くのはきっと自然なことだが、では私が若者の話題を持ち出すときに、必ず文化的なことを引用するのはなぜだろう。
元々読者がほとんどいないようなこのブログで、こんな誰も興味がないような話題を選ぶのはさらに気がひけるが、
私は若者のことを書くときにはなぜかいつの間に話題が映画や小説になる。
それはきっと、自分が何を武器に人生を有利に進めていくか、という問題に深く関わっていると考えている。
例えば私はゴダールの「男性・女性」に出てくる若者たちが好きだし、「限りなく透明に近いブルー」の若者たちも大好きで、「ブルーベルベット」で主人公の無知な若者が狂気に出会っていく感じも好きだ。
一方で人気YouTuberは頭が良くてすごいと思うが好きにはなれないし、スポーツマンは尊敬に値するが競技以外には興味がないし、「ワイルド・スピード」に出てくるような若者たちはイカしてるとは思うが、舞台が映画の中というだけで、彼らも要するにスポーツ・マンである。
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どうして若者のことを考えるのだろうと思うし、若者について書いたりするが、若者を助けてやりたいとか、若者の惨状をどうにかしたいなどとは思わない。
自分が経済的にというか、社会的に自立しない限り、誰かを助けることなどできるはずがない。
よく大学に入りたての、幼顔の若者が「アフリカの子どもたちを救いたい」などと言っているのを見ると吐き気がする。
貧困国の現状は無視できない。だが例えば会社勤めの親に学費を払ってもらっていて自分の将来もろくに決まっていない若者が、誰かを救いたい、などというのは非合理的だと思う。
打算的で卑怯だとか偽善だとか、そういう問題ではなく、他に優先すべきことがある。
自分が何を武器にして人生を有利に進めていくのか、という重要な問題を、ボランティア活動で得られる充実感とすり替えようとするのは明らかに間違っている。
誤解を生まないように言うと、ボランティア活動そのものはまったくの善で、行うこと自体はほとんどの場合、偽善などない。多くの場合偽るのは善ではなく、自分自身だ。
若者を助けたいとも思っていないのだとしたら、では何の為にわざわざ若者について書くのだろうか。
私の勘だが、多くの若者たちが勘違いしていることがあるような気がする。
現状に適応できない若者が巷に溢れかえっているのに、その若者から一向に進化の可能性が見えてこないのだ。
スピルバーグのマイノリティ・リポートで、システムの開発者である老婦人が動く植物のツタを握り潰して殺しながら、「追い込まれ危機にさらされると生あるものが考えることは一つ、自らのサバイバル」というシーンがあるが、現状そのようになっているだろうか。
明日生きる金もないほど貧困に覆われていたり、DVなどの家庭状況から抜け出すことが最優先だったりする人には、進化よりも前に直ちに対策することがあるだろうが、それにしても適応できずにただ自滅していく若者が多い。
若者の進化の条件として、前提的に何かが否定され、無視されているような気がする。
そのことに対して、私は違和感を覚える。そして同時に興味も覚える。
きっと自分と世間、自分と社会のずれ、のようなものに興味があるのだろう。
どうやらそれが偽りのないことだけは確かである。