自慢話を進んで聴きたい、という人は珍しいだろう。
一ヶ月ほど前、2つ上の30歳になる先輩が、頼んでもいないのにスマホを見せてきて、自慢を始めた。
小さな新聞の切り抜きを自分で撮ったものだった。
高校サッカー県大会の予選で、FKを決めたことがその人の自慢らしい。
その先輩のことは好きでも嫌いでもなかったので、適当に調子を合わせられたが、じゃあ他人の自慢を進んで聴きたいか、といえば話は別である。
例えばマイケル・ジョーダンやリオネル・メッシ、ウサイン・ボルトの自慢話だったら、もちろん彼らは自慢話をしないだろうが進んで聴きたいと思う。
比較対象があまりにも極端かもしれないが、高校サッカーの県大会の予選でゴールを決めた人は毎年何百人単位で増え続けているだろうから、彼らオンリー・ワンのアスリートと比べてその30歳の先輩の自慢話にはそれほど価値がない。だから聞きたがる人は少ない。
そういえば日本のアスリートでも謙虚な人が多く、自慢話をする人は少ない。
100mを9秒台で走る日本人が出てきて久しいが、誰も自慢などしない。9秒台を出しても世界との差はまだまだあると感じているからかもしれない。
だが卓球やテニス、バドミントン、フィギュアスケートなどで、世界ランクの上位に食い込む日本人もいる。彼ら彼女らもほとんど自慢などしない。そして日本のアスリートは国民に非常に尊敬されている。そのほとんどがテレビCMや大衆紙、バラエティに露出する人気者で、きっと何十万人もの子どもたちが彼ら彼女らを目指して日々努力しているはずだろう。
その先輩も彼ら彼女らを目指して努力していたが叶わなかった1人ではないだろうかとふと思ってしまった。
私のように工場や発電所などで働いていると、昔は145kmを投げていたとか、地区大会でホームランを打ったとかぼやいている人に必ず出くわす。だが新聞の切り抜きを見せて自慢話を始めるくらいはまだ可愛いもので、中にはどうしても現実を受け入れられず、犯罪や自殺などの極端な行動に走ってしまう人も少なくない。
だが日本のアスリートは自慢話こそ少ないが、どうでもいいことはよくしゃべる。
どうでもいいこと、好きなアイドルは誰だとか、芸能人の誰が好きだとか、そういうことだ。
例えば芸術や文化に通じています、というアスリートは非常に少ない。そして彼ら彼女らの多くは競技以外のことは非常に無知で顔も幼い。
彼ら彼女らにとってはJーPOPとアイドルが文化のすべてなので、例えばヴェルヴェット・アンダーグラウンドやビーチボーイズのアルバムも知らないだろうし、フェリーニやゴダールやトリュフォー、もっといえばカサブランカやロバート・デ・ニーロさえ知らないだろう。
まだ公園や河川敷で寝ているホームレスの方が文化的なことについては詳しいかもしれないと思えるほどだ。
ただ、バラエティ番組などでアスリートが、よく聴く音楽はジャニーズだ、アイドルの誰々を推している、と恥じらいも無く喋っているのを見たら、きっとほとんどの若者は親近感を持つのだろうと思った。
残念ながらそんな若者は救いようがないと思う。
アスリートのような才能も、運も、集中力もない若者が、アスリートの唯一の弱点のようなことについて学ぼうとせず、ジャニーズやアイドルの追っかけをして同調に走るのなら、恐らく充実した人生を送ることは難しいだろう。
私のいる地方の工場や発電所だけでなく、巷に溢れかえっている若者を見てもらうとよくわかる通り、そういった人々の人生に残るのは充実しない日々の仕事と苦痛や惰性、スマホ、マンガ、ゲーム、風俗、貧困、それだけである。
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「波止場」という古い映画がある。
エリア・カザン監督、マーロン・ブランド演じるプロボクサー崩れの若者・テリーが、波止場を牛耳るマフィア達に立ち向かう様を描いた名作だ。
文化に詳しいことを手っ取り早くアピールしたい若者が、「ゴッド・ファーザー」を好きな映画に挙げるのはもはや常套手段になりつつある。当然だがマーロン・ブランドの魅力はドン・コルレオーネだけではない。
テリーは元プロボクサーで、当然ながらスマホで自分の記事の切り抜きを友人に見せたりはせず、マフィアの脅しや圧力に屈することなく、波止場の不正を暴き、ボスと対峙し、最後には仲間達の賞賛を勝ち取る。
テーマもストーリーも全く別物だが、「レイジング・ブル」よりも私は「波止場」の方が好きだし、スクリーンの中のマーロン・ブランドは本当に格好良くて美しい。
「過去にすがるな、戦え」
などという陳腐なメッセージを届けたいわけではない。
私はメッセージに興味がない。
ただ、60年以上も前にこんな映画が発表されていたのだとしたら、
一体いまの若者とは何なのだろうと思ってしまうのだ。