
東宝ビルト(美セン)
世田谷区大蔵の地に存在したウルトラマンの撮影所「東宝ビルト」。
初期は“美セン”と呼ばれ、1966年の『ウルトラQ』から2007年の『ウルトラマンメビウス』まで、この地でウルトラ作品が生み出されていました。
円谷プロダクション創立60周年を記念して、伝説の国民的作品『ウルトラマン』を始めとしたウルトラ作品の生誕地について、簡単に紹介させて頂きます――。
[出典] Facebook | 大石一雄
ウルトラ作品の生誕地
東宝ビルトの前身は、1962年10月に設立された東宝撮影所の美術工房「東京美術センター」。
そのルーツは、東宝の所外オープン用地「農場オープン」で、黒澤明監督の『七人の侍 』(1954年)や『ゴジラ』(1954年)などの撮影に使用されました。
この土地は1943年から東宝の所有で、美術道具の倉庫やスタッフの宿舎などを作ったことをきっかけに、撮影所としての体を成していったようです。
スタッフから”美セン”と呼ばれて親しまれていたこの撮影所は、ブリキ張りの壁にトタン屋根という簡易的な倉庫のような建屋でした。
そのため、雨音や木々の枯葉が屋根に落ちる音がスタジオに鳴り響いて、セリフが聞こえなくなる時があったそうです。
また、周りが畑だったので、撮影中に近隣の農家が飼っていた牛や鶏の鳴き声が聞こえたり、上空を飛ぶ飛行機の音も聞こえたとか。
ウルトラQの頃からアフレコ (撮影後に音や声を録音する方式) が採用されていたのは、こういった理由からでした。

壁も隙間だらけで、雪が吹き込んでステージ内に積もったり、トタン屋根に積もった雪が屋根を突き破ってステージに落ちてきて、撮影が中止になったこともあったそうです。
また、冷暖房も無く、夏は灼熱地獄で冬は冷蔵庫の中にいるようだったといいます。
1966~1967年頃の美セン
下記の空撮写真は、1966年11月のウルトラマン撮影中の美セン。
敷地の南側に、ステージに庭のセットを作る時に植える植木を待機させておく温室があり、『ウルトラQ』第8話「甘い蜜の恐怖」で撮影に使用されました。
下記画像は、翌年のウルトラセブン撮影中の美セン。
当時は食堂棟が無く、正門前にあった定食屋を利用したり、ロケバスで成城学園駅近くまで食べに行ったりしていたそうです。
[出典] ウルトラセブン 4K UHD&MovieNEX PR映像
美センから東宝ビルトへ
1973年11月に撮影所の機能が大幅に強化され、名称も「東宝ビルト」に変更。
1974年の立体写真では時代劇用のオープンセットも見えますが、1981年1月の火災で焼失してしまいました。
※こちらの画像では、建築物としての屋敷や民家として創作も含めて描かれています
[出典] Facebook | 大石一雄
東宝ビルト全景
東宝ビルト (美セン) の建物や場所について、2007年頃の空撮写真を元に、第1期ウルトラシリーズ時代を中心に簡単に紹介させて頂きます。
[出典] Bin's Photo Collection 13
正門
交通標識の脇にある集合住宅の案内ブロック辺りに、東宝ビルトの正門があったようです。
なお、美セン時代から『ウルトラマンティガ』の撮影が始まる前までは、守衛室のすぐ傍に正門がありました。
[出典] Facebook | 大石一雄
美セン入り口すぐ左には守衛室、右には美術さんの作業場があります。
体中ペンキだらけで頭にタオルを姉さんかむりしたバイトの美大生男女が、特撮用の模型に黙々と塗装をしています。
窓際に両手をついて外を眺めているデザイナーの成田亨さんの前を隊員服姿のアンヌが横切ると、ニコニコしながらアンヌに声をかけてきます。
門を入るとすぐ左側に守衛室があった。「おはようございます」 ガラスの小窓をのぞき込みながら、私は挨拶をした。
[出典] ウルトラマン青春期 フジ隊員の929日 | 桜井浩子

第5スタジオ(旧Aステージ)
特撮のメインステージで、『ウルトラマン』 のマスコミ向け撮影会も行われました。
ウルトラマンの最終回「さらばウルトラマン」でのゼットンとの死闘も、1967年3月22日にAステージで撮影が行われています。
[出典] Facebook | 大石一雄
ちなみに、ウルトラマン第27話「怪獣殿下(後篇)」でゴモラが大阪城を壊すシーンは、Eステージで撮影されました。
Eステージでは、大阪城の前でウルトラマンとゴモラが戦うシーンのマスコミ向け撮影会も行われています。
ゴモラが大阪の街を破壊するシーンはBステージでの撮影で、ウルトラマン第30話「まぼろしの雪山」でのウーとウルトラマンの戦いも同ステージです。
【改築で名称変更】
1980年制作の『ウルトラマン80』の時に改築され、Aステージから第5スタジオという名称に変わったようです。
『ウルトラマンティガ』(1996年)の時には、円谷プロの出資によりホリゾントが高く改造され、セットの下がプールになりました。
[出典] Facebook | 大石一雄]
【美大生の活躍】
美術担当が描き起こしたミニチュアのデザイン図面を実際のセットに仕上げるのは、美大生を中心とした学生のバイトの人達でした。
毎日何十人という学生達が深夜まで作業していて、ギターを弾きながら歌う人もいたりして、毎日が文化祭の前夜のようだったとか。
[出典] ウルトラマンをつくった男たち ー月の林に月の舟-
【撮影会】
マスコミ向け撮影会は『ウルトラマン』がAステージで1966年4月1日と5月、6月の3回、『ウルトラセブン』はBステージで1967年8月21日に実施されました。
当初の予定では、ウルトラマンの目の下を削って透明な素材をはめる予定でしたが、特写会に間に合わず、ドリルで穴を開けることになりました。
[出典] 特技監督円谷英二 写真集
【ウルトラ戦士の戦場ヶ原】
Aステージ(第5スタジオ)は、ウルトラマンを始めとした様々なウルトラ戦士が幾多の怪獣たちと闘いを繰り広げた“ウルトラ戦士の戦場ヶ原”でした。
●第1期ウルトラシリーズ
『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』までの円谷英二監督が監修した3作品。
朝日ソノラマ「ファンタスティック・コレクション」シリーズなど、1978年以降の出版物によって呼称されるようになり、以後定着しました。
●第2期ウルトラシリーズ
1971年4月から再開されたウルトラシリーズ。
『帰ってきたウルトラマン』でウルトラマンとウルトラセブンの客演、『ウルトラマンA』で“ウルトラ兄弟”の設定が確立しました。
『ウルトラマンタロウ』でそれを発展させて、“ウルトラファミリー路線”が打ち出されました。
●第3期ウルトラシリーズ
1978年から雑誌での特集やテレビの再放送をきっかけに巻き起こった空前の「第3次怪獣ブーム」を受けて、新たに制作されたウルトラマン。
●円谷プロ創立30周年記念作品
「円谷プロダクション創立30周年記念作品」として『80』以来12年ぶりに制作された特撮テレビシリーズ。
●平成ウルトラセブンシリーズ
ウルトラマン、及び第2期ウルトラシリーズとは切り離した上で展開された、ウルトラセブンの直接の続編として制作。
最初の2本は特番で放送され、その続編として3本のオリジナルビデオシリーズが発売されました。
●平成第1期ウルトラシリーズ (平成三部作)
『ウルトラマン80』の放送終了から16年後、“ウルトラマン生誕30周年”を迎えた1996年、ウルトラマンシリーズが復活。
世界観を共有するのは『ティガ』と『ダイナ』のみですが、『ガイア』も続けて制作され、視聴率や玩具売上も好調でした。
●平成第2期ウルトラシリーズ
“円谷英二生誕100周年”と“ウルトラシリーズ35周年”を迎えた2001年、『ウルトラマンコスモス』を機にウルトラシリーズが再開されました。
『ネクサス』『マックス』『メビウス』は、ハイコンセプト・ウルトラマンシリーズとも総称されています。
Cステージ
科学特捜隊の作戦室セットがあったステージ。夏は暑く、冬は冷蔵庫の様な寒さで、錆びたトタン屋根だったので雨漏りもしたとか。
ムラマツキャップ役の小林昭二氏は「もっと真面目に演れよ!」が口癖で、芝居に対する真摯な態度は周りを圧倒していたそうです。
キャップの毎度のお小言に、アラシもイデも「参ったな!また叱られちゃったぜ!」などと嬉し気にはしゃいでいたとか。
小林氏は、自分のアクセントを繰り返させて、ハヤタの富山のお国訛りを根気よく直すこともしていました。
「いいか、我々は5人で科学特捜隊なんだからな。5人で1組なんだぞ。ここからは誰も引かない、誰も足さないんだ」ともよく言っていたそうです。
フジ隊員役の桜井氏は、円谷プロ企画文芸室長だった金城哲夫氏とも交流があったそうです。
ある時、寝不足でトロンとした目の金城氏に「金城さんいつ寝てるの?」と聴くと、大きな目をパタパタさせて「僕は宇宙人だから寝なくても平気なんだよ!」と答えたとか(笑)
Cステージはウルトラマン終了後は倉庫として使用され、『ウルトラマンメビウス外伝 / アーマードダークネス』の特典映像で紹介されています。
第6スタジオ
正門のすぐ傍にあった第6スタジオには、『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊の作戦室のセットが造られていました。
最初は倉庫でしたが、スタジオに改装したそうです。
[出典] Facebook | 大石一雄
地球防衛軍の地下基地の廊下やメディカルセンターなども同じスタジオで、他に特撮用のスタジオ、ウルトラホーク1号~3号の操縦席用のスタジオもありました。
真夏から始まった撮影は大変です、セットにはクーラーがありません。密閉されたセットの中は撮影ライトを浴びてサウナ状態。
カットがかかる度に外へ出る。真夏の日中の外気温の方が涼しく感じるのです。ス~ッと風が通って、ウワ~涼しい!って錯覚するほどでした。
[出典] アンヌ今昔物語 ウルトラセブンよ永遠に・・・ | ひし美ゆり子
製作部
1階はスタッフルームになっていて、そこで本編のスタッフと俳優陣にラッシュ(粗編集)フィルムを披露するのが通例になっていました。
[出典] 大伴昌司コレクション
また、美術部の作業場もあり、怪獣の着ぐるみなどの様々な造り物が室内では収まり切れずに、入り口の方にはみ出して置かれていたそうです。
いつも夜を徹して作業していたため、実相寺昭雄監督が作業場の入り口を入っただけで活気が伝わってきたとか。
2階は出演者の控室になっていて、衣裳部屋、メイク室、結髪室などがありました。
また、『ウルトラマン』の終わりか『ウルトラセブン』ぐらいの頃、2階のかなり広いところにデザインルームが作られたそうです。
それ以来、美術担当の成田亨氏は、円谷プロの文芸企画室で行っていたデザインの打ち合わせをそこで行うようになりました。
[出典] Facebook | 大石一雄
【フクシン君のアパート】
なお、この建物はウルトラセブン第45話「円盤が来た」で、アマチュア天文家のフクシン君が自宅で天体観測をするシーンに使われています。
撮影のために、窓の外にベランダのセットを作ったそうです。
下記画像は、フクシン君がウルトラ警備隊のポインターでアパートまで送迎されるシーンで、右側に見えるのは当時存在したDステージ。
【セブン完成記念写真】
1968年8月8日に撮影されたウルトラセブンのオールアップの写真も、こちらの建物の前で撮影されています。
[出典] 昭和42年ウルトラセブン誕生 | 金田益実
ビルトサロン
東宝ビルト内にあった食堂棟で、セブンの撮影時 (第45話「円盤が来た」以降) に出来たそうです。円谷英二監督は、カレーライスばかり食べていたとか。
食堂の様子を撮影した映像は、『陽あたり良好!』(1982年) の特典映像に収録されています。食堂内は意外と庶民的な感じです。
『ウルトラマンメビウス / アーマードダークネス 』の特典映像には、ビルトサロンで撮影された写真も収録されています。
[出典] Facebook | 大石一雄
オープンセット
東宝ビルトの屋外撮影スペース。
ホリゾントの高さ制限が無いため、ウルトラマンの姿を下から仰角で撮影する時などにも利用されていました。
1980年代後半に敷地が手狭になり、南西の林を切り拓いてオープンセットのスペースを確保したようです。
【ウルトラQ】
第22話「変身」で巨人が木々の間から出現するシーンや、第26話「燃えろ栄光」でピーターが燃え盛る木々をバックに咆哮するシーンなどでも使用されています。
【ウルトラマン】
第35話「怪獣墓場」で、シーボーズが霞ヶ関ビルを登るシーンの撮影で使用。
第29話「地底への挑戦」を始めとしたホリゾントの高さ以上の青空が映るカットは全て美センのオープンで撮影されたものでしょう。
最終話「さらばウルトラマン」のゼットンが倒れているウルトラマンに迫るシーンの青空も、美センのオープンから観た世田谷の空といえます。
【ウルトラセブン】
第3話「湖のひみつ」でエレキングが川を下るウルトラ警備隊を攻撃するシーンなどの撮影で使用。
【ガメラ】
また、『ガメラ大怪獣空中決戦』の東京タワーのシーンも、オープンセットに精巧なミニチュアを造って撮影されました。
ギャオスが折れた東京タワーに営巣するシーンのバックに沈む夕日は、世田谷区大蔵の空なのです。
また、コンビナートの爆発シーンも、オープンセットでガソリン爆発を繰り返して撮影したそうです。
【ゴジラ】
映画『ゴジラ』(1954年)の大戸島での被害状況の調査シーン。
「ゴジラ 特撮メイキング寫眞館」によると、農場オープン時代の美センでセットを組んで撮影されたそうです。
当時東名高速付近まであったオープンセットの南端から南側を撮影したシーンでは、高台の麓に広がる畑を海のマット絵を合成して消しています。
[出典] ゴジラ 特撮メイキング寫眞館
右側の林から手前の東名高速にかけた辺りが撮影場所のようです。残っている林が、大戸島のシーンで風になびく木々を思い起こさせます。
夢を子供たちに
過酷な撮影が続き、心身ともに疲弊していたウルトラマンのスーツアクター古谷敏氏。
そんなギリギリの精神状態の時、ある新聞に書かれていた自身の演技に対する批判的な記事を読み、ついに心が折れ、ウルトラマンを降板することを決意する。
朝、撮影前に円谷プロに行ってそのことを伝えようと、いつものように渋谷駅から成城学園前駅行きのバスに乗った。
すると、松陰神社前のバス停で乗ってきた子供たちが目を輝かせて、興奮しながらウルトラマンの話をし始めた。
子供たちが「次が待ち遠しい」と心から楽しそうにしている姿を見て、自分のことばかり考えて自己弁護ばかりしている自分が恥ずかしくなった古谷氏。
その瞬間、特写会で円谷英二監督から話しかけられたが、周りが騒がしくて「夢だよ、夢をこ…」までしか聞きとれなかった言葉の全体を理解した。
「夢だよ、夢を子供たちに見させてあげるんだよ」
古谷氏も子供の頃、『鞍馬天狗』というヒーローに夢中になり、映画を観るといつも夢の中にいるような気持ちになったことを思い出した。
「ウルトラマンを降りるのをやめよう。子供たちが自分の夢を育てるその手伝いをしよう。僕にしかできない、いつまでも子供たちの心に残るヒーローを作ろう」
そう誓った古谷氏は、東宝撮影所前でバスを降り、子供たちが乗ったバスに一礼し、美センへの道を胸を張って歩き出した――。
[出典] ウルトラマンになった男 | 古谷敏
ウルトラロード
ウルトラマンのスーツアクターの古谷氏やハヤタ隊員役の黒部氏は、渋谷から東宝撮影所前までバスで、そこから徒歩で東宝ビルトまで通っていました。
当時、藤沢に住んでいたモロボシ・ダン役の森次氏は、電車を乗り継いで成城学園前からバスに乗り換え、東宝前で降り、そこから徒歩で美センに通っていました。
そんな中、アンヌ隊員役のひし美氏は、自宅があった下北沢からタクシー通勤。
なので、タクシーに乗ったひし美氏がいつも「ダーーン!」と声をかけながらビューンと通り過ぎて行くのが悔しくて仕方なかったとか(笑)
ロケ時は、7時ごろに美センから、ロケバス、電源車、制作車、機材車数台が細い道に列を作って出発していたそうです。
当時は一方通行になっていなかったため、対向車が来ると目も当てられなかったとか。
また、俳優たちは美センでの撮影が終わると、毎日、東宝撮影所の演技課に定期報告に行っていました。
そんな数々のウルトラ作品の出演者が歩いたこの道は、”ウルトラロード”といえるでしょう。
スピルバーグとルーカス
まだ無名だった頃のスティーブン・スピルバーグが『ウルトラセブン』を撮影している美センにアポ無しで訪ねてきたことがあったそうです。
スピルバーグは、ワイヤーワークなどの特撮技術に目を見張り、撮影スタッフに色々と質問をして帰ったといいます。
彼の特撮スタッフの部屋には、円谷作品の怪獣や宇宙船のミニチュアが長く飾られていたとか。

また、ジョージ・ルーカスは、『スターウォーズ』第1作に着手する際、東宝ビルトの撮影所を模範として特殊効果用のスタジオ「ILM」を作りました。
しかし、戦闘機の空中戦を描く操演やカメラワークが複雑すぎたため、模倣することができなかったという。
苦肉の策で、コンピューターで戦闘機やカメラの位置をプログラミングするモーション・コントロールカメラを開発した結果、特撮のデジタル化で世界をリードするようになりました。
つまり、美セン(東宝ビルト)は、世界の映像技術発展のきっかけを作った場所なのです。
現在の東宝ビルト
往時はこの場所で、幾多のウルトラ戦士たちが怪獣と戦い、数多くの戦闘機が発進し、たくさんの隊員たちが指令室に集っていました。
しかし、施設の老朽化と拠点集約のため、2008年2月をもって東宝ビルトは閉鎖 。
2007年12月2日の『ウルトラマンメビウス外伝 / アーマードダークネス 』の撮影が、東宝ビルトにおけるウルトラシリーズのテレビ作品最後の撮影となりました。
その後、映画『大決戦!超ウルトラ8兄弟』(2008年)の爆発シーンの映像素材の撮影が12月22日にオープンセットで行われました。
これをもって、美セン時代の1966年から連綿と続いてきた東宝ビルトにおけるウルトラ作品の撮影の歴史にピリオドが打たれました。
後日、円谷プロ主催の東宝ビルトのお別れ会が開催され、日本のテレビ史に残る数々の歴史やスタッフ達の想いが詰まった“ウルトラ作品の生誕地”との別れを偲びました。
所内の建物は全て解体されて集合住宅になっており、周辺に記念碑も無いため、当時を偲ばせるものは何もありません——。
・東宝ビルト跡地
東京都世田谷区大蔵5丁目20‐32
※小田急線「祖師谷大蔵」より徒歩25分
※小田急バス「東宝前」より徒歩7分
編集後記
“ブリキ張りにトタン屋根の倉庫といった空間に、われわれはウルトラの夢をむすんでいたのである” (実相寺昭雄)
国民的作品の『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』を始めとしたウルトラシリーズを生み出した伝説の撮影所「東宝ビルト」。
美セン時代は冷房が無く、夏は暑さに照明の熱も加わる上に、扇風機の風もセットに届かない過酷な撮影環境でした。
スーツは体にぴったりのため皮膚呼吸ができず、演技のできる時間は15分が限界だった。
仮面の内側のウレタンがびしょびしょで、手袋や靴に汗がたまっていた。頭の毛も体もシャワーを浴びたように汗が流れていた。
ゴムのスーツで全身が締め付けられてだんだん手足が痺れて指先が重くなってくる。仮面を被ると息がしずらくなり、酸欠で頭がボーッとしてくる。
仮面のチャックを下げてもらい、ステージの外に出る。速足でオープンセットの隅に行って吐く、何回も。
ライトが当たると、仮面とゴムのスーツが触れないぐらいに熱くなる。裸で入っているので暑いのではなく、熱いのだ。
待ち時間になるとスーツを脱いで、ステージの横にドラム缶を置いて、水と氷を入れて中に入る。熱くなった身体を冷やしていたのだ。
これは、古谷敏氏の著書「ウルトラマンになった男」に書かれている撮影時の様子。
しかし、そういった過酷な環境にも負けない「子供たちに夢を与える」という純粋な志と、「良い作品を創りたい」という熱意がみなぎっていました。
これらの崇高な志が、ウルトラマンを不朽の名作にしたのだと思います。
しかし、そんな不朽の名作を生んだ伝説の場所に、作品とそれに携わったスタッフやキャストの功績を称え、顕彰する「記念碑」が無いという寂しい現実。
後世に語り継ぐべき日本の文化遺産ともいえる国民的作品を生んだ場所が、世間から忘れ去られているようで何ともやりきれません。
“特撮の神様”と呼ばれた円谷英二監督から頂いた夢のお返しとして、東宝ビルト跡地周辺に記念碑を建立するのもいいのではないでしょうか。
東宝ビルト跡地の隣には、世田谷区立の世田谷田直公園があるので、記念碑の建立場所として検討する価値は十分にあります。
トキワ荘跡地そばにある豊島区立の南長崎花咲公園にトキワ荘の記念碑が建立されていることを考えると、実現可能かと思います。
【CSRと利害関係者】
ウルトラシリーズを生み出した場所周辺への記念碑建立は、昨今重要性が増している企業の社会的責任(CSR)の観点からも求められているといえるでしょう。
CSRとは、企業に社会的公正や環境などへの配慮や、従業員、投資家、地域社会などの利害関係者に対して責任ある行動をとることを求める考え方のこと。
つまり、ウルトラシリーズの撮影所があった場所に建物を建てた会社は、否が応でもウルトラファンが利害関係者になるため、彼らへの配慮が必要になるのです。
そのため、それらのファンの気持ちを無視した経営を続けることはCSRを果たしていないことになり、企業価値を下げることに繋がっているといえます。
【世界規模でのウルトラ人気】
円谷プロダクションの公式Youtubeチャンネルの登録者数は、250万人を突破しています。
チャンネルには、世界各国の老若男女が登録しており、ウルトラ人気はすでにワールドワイドなものになっています。
この250万人ものファンたちが神聖視して大切にしている場所への記念碑建立に協力すれば、企業価値や企業イメージが世界規模で高まることは必至です。
そして、ウルトラファンは永続的に世界規模で増えていくので、永続的に企業価値を高める続けることができるのですーー。
【出典】「美セン(東宝ビルト) | 光跡」
「ウルトラマンを創った男 金城哲夫の生涯」「ウルトラマン青春期 フジ隊員の929日」
「ウルトラマン 1966+ -Special Edition-」「ウルトラマンの東京」
「アンヌ今昔物語 ウルトラセブンよ永遠に・・・」「セブンを撮った場所 世田谷編」
「ヒロコ ウルトラの女神誕生物語」「ウルトラマン誕生」「ゴジラ誕生物語」
「東宝特殊美術部の仕事」「素晴らしき特撮人生」
「『七人の侍』ロケ地の謎を探る」「地理院地図」
「キャラクター大全 総天然色ウルトラQ 下巻」
「不滅のヒーロー ウルトラマン白書」「ウルトラマンの現場」
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「特撮と怪獣 わが造形美術」「ウルトラマンが泣いている」
「ありがとう東宝ビルト ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~」