【2011年3月4日の記事】
おじさんは、仕事以外で本を読むということは苦手です。したがって司馬遼太郎などという作家さんの本はほとんど読んでいません。たまたま、昨年からテレビのシリーズで放映された「坂の上の雲」を見てしまい、すっかり魅了されこの先での放映を楽しみにしているところです。
そんなことで、その原作者の司馬遼太郎さんに興味を持ち、インターネット情報で司馬遼太郎さんのことをちょっと知り得たということです。氏は歴史小説家、特に明治という日本開国前後の時代とそこに生きた人物などをテーマにした著作が多くあります。また、紀行随筆での作品も多く書いていたようです。
そんなインターネット検索の網に引っ掛かってきた一つに「21世紀に生きる君たちへ」があります。これはおじさんも最後まで読ませてもらいました。知るところによると、氏が子どもたちのために書き下ろし、教科書(以前は大阪書籍でしたが、平成23年度からは教育出版でも6年生の教材として扱うようです。十勝では国語は教育出版を使うと聞きました)に掲載されているようです。
この内容は、子供向けというより大人の人が読んでも価値あるものだと強く感じました。
司馬遼太郎氏は1996(平成8年)年2月、72歳の生涯を閉じました。実際に21世紀を迎えることなく亡くなりました。21世紀となった現在、どんな時代が来ようとも不変なこと、そして、過去と現在・未来とはしっかりとつながっていること、子どもたちの豊かな感性を育てる責任は親や大人にあることを教えてくれる、優れた作品だと思うおじさん心です。小学生の教材だからと侮ってはいけない。これもおじさん心です。
全文引用は著作権違反だと思っているので、部分引用にしなければならないのが残念です。子どもが6年生の大人の方は是非、教科書から全文を読んでほしいと願うところです。もちろん、書店では司馬遼太郎さんの作品として売っています。
※省いたのは、~線のところです。
私は歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。~歴史とは~かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。~もし君たちさえそう望むなら~おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。~ 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。君たちは、ちがう。21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。~ もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。~ さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。人間は~繰り返すようだが~自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。
~ この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。~
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。21世紀においては、特にそのことが重要である。~
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。~人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり。今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわり~他人の痛みを感じること~やさしさと言いかえてもいい。~この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分の中でつくりあげていきさえすればいい。
~ 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
子どもたちが、この教材を通して学んだことと、親や大人の現実があまりにもかけ離れたものであってほしくありません。
すべては未来のために、すべては子供たちのために。ちょっと大げさだったかな。