もむでんブログ

今週も史跡巡りWalking!

思い付きで始めた近所の早朝ウォーキング。
天気などの都合もありますが、概ね週1・2回はどうにか続いています。

今日も両国界隈へ出発!

まずは過去も行った吉良邸近くにたどり着きましたが、100mほど西側には「吉良邸裏門跡」なる看板を発見。

ということは、敷地は楽に100mはあったんですね・・・。

京葉道路を渡り、国技館の西側から隅田川テラスへ。
すると、手すりには決まり手の金属細工が施されていました。

全部見ませんでしたが、四十八手あるのでしょうか・・・?

両国橋をくぐり、橋の袂へ。
ここも葛飾北斎の東海道五十三次に描かれていた場所のようです。


両国橋は1660年頃に隅田川に二番目に架かった橋で、武蔵国と下総国の2つの国をつないだことから両国橋と名つけられたそうで、この地域の名の由来になっています。


京葉道路を挟んで、以前に行った川魚専門店の「桔梗屋」があります。


その向かい付近には猪料理の「ももんじや」があります。


何と、創業は1718年。

日本史でも習った享保時代になります。
もうすぐ創業300年ですか・・・。
史跡扱いの看板があるのにはびっくりしました。

すぐ南にはすっぽんや鰻の「明神下 神田川支店」。

と、江戸らしいお店が集中しています。
ちなみに、江戸時代は鰻やマグロのトロなど、油っこい魚は下賤な魚とされて、武士等は食べなかったらしいですけどね。

あれ?何もないところに例の史跡の看板が・・・。

「石尊垢離場跡」とありますが、「大山詣で」の参拝前に体を清める場所だったようです。
へぇ・・・史跡とされるほどなんですね。

すぐ近くに「赤穂浪士休息の地」なる看板を発見。

吉良邸討ち入りの後、赤穂浪士がこの場所で休息を取ったのだとか。
誰かがその後印でもつけたんでしょうか・・・。

やはりすぐ近くに「旧両国橋 広小路跡」の看板があります。

現在の両国橋は鉄筋にする際に当初の場所から少しずらして作ったのだそうで、元々の両国橋とそれにつながる広小路があって、見世物小屋や茶屋が立ち並んだとされている場所のようです。
今はそんな形跡は全くないですけどね。

そこから東に向かうと、「回向院正門跡」なる看板を発見。

今は京葉道路側が正門みたいですが、当時はこっち側だったんですね。
なお、その場所は現在幼稚園になっています。

近くにあった「元町跡」の看板。

この界隈で最初に開かれた町屋で「元町」の名がついたそうで、現在の住所にはもちろんその名残は残されていません。

この辺に「与兵衛寿司」跡地があると、見たのですが・・・。

あった!

住宅街の細い路地にひっそりと・・・。
ここが初めて握りずしを提供したとされる「与兵衛寿司」の跡地とは・・・。
全然寿司屋の面影もないですね。

おっ、春日野部屋発見。

ここも歴史のある相撲部屋として立て看板が・・・。
現在は7・8階建ての鉄筋コンクリート建てですけどね。

そろそろ帰ろうかと我が家の方面に足を向け、堅川にかかる一之橋を渡ったら、やはり立て看板が。

この東、清澄通りには「二之橋」がかかっていますが、隅田川から見て最初の橋ということで「一之橋」だそう。
ですが、今は「一之橋」と「二之橋」の間にもう一つ橋がありますが。

この界隈に幕府の船を係留する「御船蔵」があったと示す看板を発見。


ですが、離れてみるとすぐ近くのゴミ捨て場のごみが侵食・・・(苦笑)。


そして、寺社が多いこの界隈ですが、「西光寺」も1606年に建立したとされる結構古いお寺です。


このお寺の角が墨田区でそのすぐ南は江東区になっています。

普通に細い路地が区界になっていて、普通にご近所さんなのに行く区役所や通う小学校が違うというのも複雑な心境ですよね。
川や大通りで隔てられていればそう言う気もしないのですが。

この界隈の区界も複雑に入り組んでいるので、どういう理由で分けられたのか調べてみるのも面白いかもしれませんね。

それにしても、既に回ったと思う地域でもかなりの史跡を発見できました。

まだまだ開拓のし甲斐がありそうです。
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