”終わるときが見えない日は
青空がいつも遠くて
地面を這うアリのように
ひたむきにもなれない”
と、言う日を20年前くらいに書いた。そん時のことを思い出した。泣きそうになった。
やっぱり今日も一人でいっぱい。胸いっぱい。ここんところの身体の中にいた”もう一人の存在”は消えたよう。でも胸がキリキリと痛む。しょうがない。ハイリターンノーリスクなんて都合がいい話なんてない。悩んで生きるのが仕事だと思っていたけれど、年のせいか悩みも減るね。自分の位置関係を常に把握できていればなんとかなる。
ちょっと前は地獄の三丁目あたりだったけど、今は出口くらいにはたどり着けたよう。バスは抵抗があったからもちろん鈍カメのごとく、のろのろ歩いた。物事の見え方を変えずに、物を見る位置を変えてみたら、始まりが見える気がしますね。
ヤフーのTOPIX見ていたら、紀香&愛之助 DAIGO&北川景子が来春に結婚するそうだ(笑)。めでたしめでたし(笑)。
おいらの人生や世界観が大きく変わったわけではないだろう。アチラ側が変化したように思う。動きがあったのだ。それは普通に受け止めれば悲しいことかも知れないけど、鎖みたいに強固だった糸や意図が切れた感じがする。アチラサイドの事情。推察するのは嫌なのでホッておくけど、時期に知らせは来るだろう。
いっぱいあって一個一個解決させないといけなくなって、何個も同時に始めたり、辞めたり。そう言えば去年の今ごろにあるカン違いに気が付いて、愚かなおいらは相手の罠にまんまとハマっていたことに気が付いた。由緒があるなんて訊くとネットで簡単に検索できるって思い込んでいた。信じ切っていた・・・・・・。
由緒って・・・・なんだろう?
まんまと騙された。それはきっとそういう言葉で誤魔化されただけなのだ。曖昧にぼやかすことで敬意付けする。町の名士って言えば企業家や議員などを想像するけど、その他には僧侶や由緒ある神社の神職なども含まれる。たぶんには言われた側がふいていた部分もあるんだろうが、おいらは一瞬で化けの皮をはいだ。薄っぺらいからだ。顔が利くなら、こうはならないのが世の常。別に名士って悪党でもいいわけだし。顔が利かない名士はいつも薄っぺらいベールの向こうで怯えていた。
古いとされる神社の創建は1500年以上前。それこそ神代の時代。今のような建物(宮)で行う祭祀とは違うのだろうけど、それくらい古い歴史を持つところは数少ない。地方だと1300年~1100年前。それでも現存する神社は由緒も由来もはっきりしているし、時の権力者であった朝廷の命を受けていたりする。天皇の直属機関だ。国司であった人たちが祭祀を行うようになり、国造となり政ごとを納めていた。伊勢、出雲、阿蘇などは移り行く政権の中でもそれら政治と祭祀で、その地を納めてきた。
由緒って言うならば・・・・と、その町の神社を調べたときヒットしたのは二社。ひとつはおいらの町でも威勢を放っていた豪族が勧請したところ。もう一つが神主Nの暮らす街に偶然あった。歴史に直せば800年前。南北朝時代の来歴を持っていた。仕事が出来ない人でもパソコンをいじるのは好きな人もいるけど、ただの機械音痴。HPなど作成できるはずもない。しかし、由緒や来歴は他人が語ってこそ本物。その町の歴史に連なる歴史上の人物にも関わりがあるから、市のHPでも取り上げられていた。・・・・それがカン違い。
実際は「どこの神社?」と周囲に尋ねたことがあったけど一様に知らないと言う。で、住んでる近くじゃない?とか曖昧なことを言う。長年一緒に働いていた人にも内緒だったみたいだけど、そこまで他人から「関心を持たれない」ような人なのだ。仕事はしないけど名士であり、仕事はしなくても良い人間なのだ。普通はそういうタイプの人は職場には必要ない。下々の前ではふんぞり返っているのだから・・・・。目立たず無害認定され、それでも重宝がられる。それでも必要とされる。そういう人物像に一ミリの合わない。縁故で贔屓され庇護下にいる。それしかしっくりくるものがない。
友達の嫁さんはおいらの高校のクラスメートで、そこの家族とは幼馴染。旧姓がNと同じだし住所も同じ町だから、親戚だと思っていたら、同じ苗字だけど親戚でもなんでもないことを旦那の方に訊かされた・・・・。で、現在の状況は知らないけど、呪う神主の親父さんが宮司を務めていた神社を教えて貰った。おいらがあたりをつけた古社の宮司家は全然無関係だった。やられた。みごとにやられた。
祝うのも神呪うのも神。こういう矛盾した状況に日本人は慣れない。キリスト教は神VS悪魔が対立する構図だけど、悪魔は元天使だったりする。どんなに悪に染まろうと、元天使だった神は唯一神である神には勝てないのだ。でも日本の場合は八百万。それこそ五万といらっしゃる。天照大神やスサノオ命のような記紀神話のスーパーヒーローばかりが祀られているわけじゃない。天津神同志も闘うし、結局誰が一番強いかは書かれていない。上位関係があるだけなのが日本の神。天照大神の上位である別天津神の存在なんて知らない人も多い。通常は一人神。性別の区別はないが、神を生み国を生む基礎を作った。とても分かりにくいのだ。言語をみても分かる通り、キリスト教を中心として栄えた文明や文化は芸術以外は実にシンプルだ。
イタリアトリノの聖遺物である聖骸布という代物がある。ロンギロスの槍とか聖杯と同じような現存しているか不明な宝物。聖骸布とはキリストの遺骸をくるんだ布とされる。炭素測定で出た年代はおよそ1000年前。明らかな偽装だろう。でもMITとかを首席で卒業したような科学者が大真面目に言うのだ。奇跡が起こったときに(神として生き返ったときね)に何らかの神の物質が放出された結果だと。日本ならばきっと公開すら控える事態になるだろう。年代が合わないのは偽物だから。日本人は偽物と思うものを神々しいなど敬いませんよね。長い間科学と対立してきたキリスト教圏の人らは、それとわかっていても奇跡を信じてる。真面目な日本人は奇跡なんて心の底から信じてはいない。形式化された伝統を守っているだけなのだ。正月に飾る鏡餅が神の身体(肉)だと知っている人は何人いるだろう。キリスト教の聖体拝領の意味を知っている人はどれくらいいるだろう。もちろん神の食べ物マナにちなんだエピソードを持つ儀式なんだけど、神を食べてしまったりするんだ。でもそれは鏡開きの日に餅を食べるのと同じことだ。どちらも聖なる祝う行為なのである。
一人の神と八百万の神。日本の場合、神(複数)VS悪霊になる。それでは悪霊に負ける神もいることになる。そもそもの定義が違うからだ。天津神に国を明け渡した国津神。でも国津神は黄泉の支配者になり下がっても決して悪魔ではないから、弱いとは記されていない。国譲り神話を思い出してほしい。唯一戦いを挑んだ神であるタケミナカタ命は結果天津神に敗れるが、諏訪に逃れて悪魔ではなく、神となってるでしょう。日本にはルシファーのような悪魔はいないのです。おどろおどろしいけど国生みの神であるイザナミにしても神として祀る神社は日本に数多くある。
500年前の母のご先祖が、石見三宮を奉じていた時期があるという真偽の定かでは噂を昨年耳にした。三宮(正式名:大祭天石門彦神社)はあまり馴染みのない古社だった。そこに天津神である天石門別神とタケミナカタ命を隣神としてお祀りしてる。天石門別神と言えば天の岩戸神話で大岩をこじあけた神である。ともに力持ちなのだけれど・・・・。
霊能者さん曰く「その神社に謝りたいけどいけないときはお賽銭を別の神社でさしあげて許しをこうても良い」とのことだった。正式には奉納するお賽銭にはある工夫がいるんだけど割愛します。それはきっと正式な作法や祭式ではないと思いますので。で、この3か月前に実践した。
いま三宮は神楽会場として利用されている。いつ訪れても神はその場所にいない。ご神体は裏山の大岩。古代の巨石信仰の聖地だったのだろう。過去は交通の要所でもあった。でもいない。
元は三宮の摂社だと思うけど内にある足王神社(権現さん系だから修験道の色合いが濃い神仏習合の神)の小さな社には猿田彦命はいらっしゃる。霊能者ではないから分からないけど、神々しい存在がそこにある。
で、どこに行ったんだろう?と思っていた。天石門別神(手力男命)がお邪魔するような他のところはあるんだろうか。ああありました。三宮さんは宮司不在で、それでいて由緒がある。ある時期とても荒廃して雑草に覆われていた。だから神楽会場とすることで市が管理して整理しているから境内はきれいだし社も補修されてはいる。でもここには神楽殿がない。だから拝殿を会場としてる。そこは神の祈り場ではない。しかしここも掛け持ちしてくださる別の神社の宮司さんがおられてお祀りされている。
名前や雰囲気が違うし、社格もかけ離れているが、その宮司さんの一族が元々三宮を奉じていたらしい。のだ。文献を見た訳ではないけど人から訊いた。1200年の歴史を持つ古社であり、市内でも有名な商売の神。
今回、呼び出しを食らったとき、「どっち?」と思った。まあこっちと思ったのには理由があるけど、三宮にはなぜか足が向かなかった。・・で今思うと、天石門別神もタケミナカタ命も、こっちにおられるじゃないかと思った。その宮司さんに祈願をお願いしたこともある。なんとなく神に愛されてる人なのだ。若い方だが、そういう趣きのある人物である。あっちでお願いしたのにこっちに呼ばれた。カン違いして神主N同様に憎んでしまった神社そのものに、タケミナカタ命が合祀されていたからだ。八幡宮に祀られる神としては珍しいのかな?でも戦国時代の武将は武神を尊んだ。タケミナカタ命もまた闘う神だから・・・・・。
霊能者さんによるお賽銭の話を行うとしたら同系統の神様がいる社がふさわしいと思い、三宮に出向いた。で、満願叶ったのか、違う場所に呼び出された。けど、今度改めてまいろうと思う。例祭ならば戻られるだろうしね。いまはただの聖域。おいらが言うのもなんだけど、浜田市の人はもっと参拝するべきだ。氏神神社定義もあるけど社格は正一位だし石見三宮である。すなわち市内全体の総氏神さまと言うことなのです。ご神体やエリヤをパワースポットして紹介しているブログなどもあって意外と県外の参拝者は多い。総べる氏神さんです。神様は忘れちゃうと消えちゃいますからね。市を代表する神様ですから誇りにしないといけないです。そうすれば座す神はいつもその場所にいて貰えます。
その宮司さんと神主Nは真逆。人徳なんてありません。もう口を開けば誰かの悪口。それもドを超えている悪態。なんでそんなに腹が立つのか。認めて欲しくて悔しいのならば精一杯精進して仕事すればいいのに怠け者。「出来る人間がやればいいじゃん」それこそ出来ない人間が口にしてはいけない言葉。悪態、自慢、またまた悪態。日々その繰り返し。普通の人間は嫌になりますよね。別段話が旨いとか、既知にとんでるはずもない。・・・でも変わったのは親父さんが亡くなったころかな。何かを引き継いで何かを失った。人懐っこい人だと思っていたけど今はその面影もない。邪悪そのもので、常に周囲を気にしてる。実際にアレがおいらの氏神さんの宮司家ならばほかに行きます。アレの生活のために賽銭したり寄付は出来そうもない。
まあNの威張る町は神道を信仰する人が多いと訊く。でもね、おいらの町には由緒ある社が多い。だから中心はこっちだぞ。まあちょっとだけ戦争の影響がひどくて仏教の方が強いけど。だからね、そう言うことではなくて神さんを敬いましょうね。神さんがちゃんと座すことが出来ないような何らかの力が働いているとしか思えないような有様。せめて神楽をタダ見しないで、賽銭はあげましょう。それではいくらスピ系のまじないをしても、パワースポットや伊勢や出雲大社に出かけても大きなご縁はいただけません。もし貰った気持ちでいてもしっぺ返しが来ちゃいますよ。作法や礼節を重んじるのが神道です。おいらは逆から始めたからこそ、その意味が分かります。順番を守ってこそ、謙虚な心こそ、届くんです。それは自分に届くと言うことなのです。
タケミナカタ命にしっかりと思いが届いた気がします。カン違いしたのはおいらが悪い。間違いに気づいて、もう一年。もし犠牲が必要だったのならば時間と心を犠牲にした。今は格好悪い中年の太ったオジサンだから・・・・。まああと数日でみんな終わる。自分の中で決めた戒めを解き放てる。
変な感じだけど、そういうことなんだろうと思う。そして誰かの悪事は暴かれ裁かれる。それが誰かも分からないけど大事が起きる。まっ、それはおいらには無関係なことになるんだけどね。その時限爆弾のタイマーがあることをおいらは知っていたから、知らずにいた人らは唖然とするだろう。世の中にそんなおいしい話はない。それは神主Nが祈ったからではない。そう信じ込まされた人たちがいる。みな一様に弱みを握られている。屈する方がラクだからだ。そもそも二年前の復活劇が奇跡(企みですけど。金の匂いがプンプンする)みたいでしたから、それを利用したのだろうけど、それがそもそもの過ち。延命する意味が分からない。当然のように「守られてる」。それじゃいけない。まずはその「守り」の期待に応えないと。それはきっとできていないと思う。察するかな?他人の力や行動力を自社のスキルや信用だとカン違いしてる趣きがある会社だったから。地元の名士がやってる会社です。ヒエラルキーもたくさんあって不満はそこかしこにあった。見ないふりするのがとても上手な人たちばかり。あれじゃ補〇金尽きれば終わります。半パブリックを主張するならマイナスもちゃんと計上しないとね。利己主義は人をあきれさせるだけ・・・・。
どんな理屈がまかり通ろうとも、上位ランカーをバカにしちゃいけません。一年前に取り返しがつかないことをやってしまっている。きっと上位ランカーは騙されたと思うだろうから、もう協力は望めない。そん時の出来事を盾に取れば言い分は通るだろう。そういう機会を与えてしまったことが、ほんの少し悔やまれる。神主Nと元上司は嫌いだったけど、会社も社長も好きだったから。それは最後のご奉仕で何とか阻止したいと思っていたけど、関係各位のバランスが思った以上に悪化してた。担当さんを恨むじゃないが、彼の得意な戦術は、おいらたちが望むこととは違っていた。でも担当を可愛がったのもまたおいら・・・・。バランサーのつもりでいた。でもね、台を失くしたバランサーは案山子にもなれないことを学んだ。おいらにすれば苦しかったけど有意義な引きこもりの一年だった。棒に振る。それが重要で必要な時間であった。と、それは今後の人生で証明していかないといけない。体験だぞ。人生の夏休みを取りすぎたから(笑)。
まっ、ひとつひとつほどけてる。絡まった糸がほぐれてる。
ようやく自分にたどり着いた(笑)。魔物ちゃん作用なら。二度と来るなぁーーーーーーーーーー。
でも一人でいっぱいの自分ってこんなに心地いい事すら忘れていたぞ。
解けた。解けた。
その意味することが少々恐ろしくもありますが、それが定めならしょうがない。それはおいらの想いとは別にあって、そうなるしかならなかったと言うことしかないのだから。
あと一押し。あとひとつ。
青空がいつも遠くて
地面を這うアリのように
ひたむきにもなれない”
と、言う日を20年前くらいに書いた。そん時のことを思い出した。泣きそうになった。
やっぱり今日も一人でいっぱい。胸いっぱい。ここんところの身体の中にいた”もう一人の存在”は消えたよう。でも胸がキリキリと痛む。しょうがない。ハイリターンノーリスクなんて都合がいい話なんてない。悩んで生きるのが仕事だと思っていたけれど、年のせいか悩みも減るね。自分の位置関係を常に把握できていればなんとかなる。
ちょっと前は地獄の三丁目あたりだったけど、今は出口くらいにはたどり着けたよう。バスは抵抗があったからもちろん鈍カメのごとく、のろのろ歩いた。物事の見え方を変えずに、物を見る位置を変えてみたら、始まりが見える気がしますね。
ヤフーのTOPIX見ていたら、紀香&愛之助 DAIGO&北川景子が来春に結婚するそうだ(笑)。めでたしめでたし(笑)。
おいらの人生や世界観が大きく変わったわけではないだろう。アチラ側が変化したように思う。動きがあったのだ。それは普通に受け止めれば悲しいことかも知れないけど、鎖みたいに強固だった糸や意図が切れた感じがする。アチラサイドの事情。推察するのは嫌なのでホッておくけど、時期に知らせは来るだろう。
いっぱいあって一個一個解決させないといけなくなって、何個も同時に始めたり、辞めたり。そう言えば去年の今ごろにあるカン違いに気が付いて、愚かなおいらは相手の罠にまんまとハマっていたことに気が付いた。由緒があるなんて訊くとネットで簡単に検索できるって思い込んでいた。信じ切っていた・・・・・・。
由緒って・・・・なんだろう?
まんまと騙された。それはきっとそういう言葉で誤魔化されただけなのだ。曖昧にぼやかすことで敬意付けする。町の名士って言えば企業家や議員などを想像するけど、その他には僧侶や由緒ある神社の神職なども含まれる。たぶんには言われた側がふいていた部分もあるんだろうが、おいらは一瞬で化けの皮をはいだ。薄っぺらいからだ。顔が利くなら、こうはならないのが世の常。別に名士って悪党でもいいわけだし。顔が利かない名士はいつも薄っぺらいベールの向こうで怯えていた。
古いとされる神社の創建は1500年以上前。それこそ神代の時代。今のような建物(宮)で行う祭祀とは違うのだろうけど、それくらい古い歴史を持つところは数少ない。地方だと1300年~1100年前。それでも現存する神社は由緒も由来もはっきりしているし、時の権力者であった朝廷の命を受けていたりする。天皇の直属機関だ。国司であった人たちが祭祀を行うようになり、国造となり政ごとを納めていた。伊勢、出雲、阿蘇などは移り行く政権の中でもそれら政治と祭祀で、その地を納めてきた。
由緒って言うならば・・・・と、その町の神社を調べたときヒットしたのは二社。ひとつはおいらの町でも威勢を放っていた豪族が勧請したところ。もう一つが神主Nの暮らす街に偶然あった。歴史に直せば800年前。南北朝時代の来歴を持っていた。仕事が出来ない人でもパソコンをいじるのは好きな人もいるけど、ただの機械音痴。HPなど作成できるはずもない。しかし、由緒や来歴は他人が語ってこそ本物。その町の歴史に連なる歴史上の人物にも関わりがあるから、市のHPでも取り上げられていた。・・・・それがカン違い。
実際は「どこの神社?」と周囲に尋ねたことがあったけど一様に知らないと言う。で、住んでる近くじゃない?とか曖昧なことを言う。長年一緒に働いていた人にも内緒だったみたいだけど、そこまで他人から「関心を持たれない」ような人なのだ。仕事はしないけど名士であり、仕事はしなくても良い人間なのだ。普通はそういうタイプの人は職場には必要ない。下々の前ではふんぞり返っているのだから・・・・。目立たず無害認定され、それでも重宝がられる。それでも必要とされる。そういう人物像に一ミリの合わない。縁故で贔屓され庇護下にいる。それしかしっくりくるものがない。
友達の嫁さんはおいらの高校のクラスメートで、そこの家族とは幼馴染。旧姓がNと同じだし住所も同じ町だから、親戚だと思っていたら、同じ苗字だけど親戚でもなんでもないことを旦那の方に訊かされた・・・・。で、現在の状況は知らないけど、呪う神主の親父さんが宮司を務めていた神社を教えて貰った。おいらがあたりをつけた古社の宮司家は全然無関係だった。やられた。みごとにやられた。
祝うのも神呪うのも神。こういう矛盾した状況に日本人は慣れない。キリスト教は神VS悪魔が対立する構図だけど、悪魔は元天使だったりする。どんなに悪に染まろうと、元天使だった神は唯一神である神には勝てないのだ。でも日本の場合は八百万。それこそ五万といらっしゃる。天照大神やスサノオ命のような記紀神話のスーパーヒーローばかりが祀られているわけじゃない。天津神同志も闘うし、結局誰が一番強いかは書かれていない。上位関係があるだけなのが日本の神。天照大神の上位である別天津神の存在なんて知らない人も多い。通常は一人神。性別の区別はないが、神を生み国を生む基礎を作った。とても分かりにくいのだ。言語をみても分かる通り、キリスト教を中心として栄えた文明や文化は芸術以外は実にシンプルだ。
イタリアトリノの聖遺物である聖骸布という代物がある。ロンギロスの槍とか聖杯と同じような現存しているか不明な宝物。聖骸布とはキリストの遺骸をくるんだ布とされる。炭素測定で出た年代はおよそ1000年前。明らかな偽装だろう。でもMITとかを首席で卒業したような科学者が大真面目に言うのだ。奇跡が起こったときに(神として生き返ったときね)に何らかの神の物質が放出された結果だと。日本ならばきっと公開すら控える事態になるだろう。年代が合わないのは偽物だから。日本人は偽物と思うものを神々しいなど敬いませんよね。長い間科学と対立してきたキリスト教圏の人らは、それとわかっていても奇跡を信じてる。真面目な日本人は奇跡なんて心の底から信じてはいない。形式化された伝統を守っているだけなのだ。正月に飾る鏡餅が神の身体(肉)だと知っている人は何人いるだろう。キリスト教の聖体拝領の意味を知っている人はどれくらいいるだろう。もちろん神の食べ物マナにちなんだエピソードを持つ儀式なんだけど、神を食べてしまったりするんだ。でもそれは鏡開きの日に餅を食べるのと同じことだ。どちらも聖なる祝う行為なのである。
一人の神と八百万の神。日本の場合、神(複数)VS悪霊になる。それでは悪霊に負ける神もいることになる。そもそもの定義が違うからだ。天津神に国を明け渡した国津神。でも国津神は黄泉の支配者になり下がっても決して悪魔ではないから、弱いとは記されていない。国譲り神話を思い出してほしい。唯一戦いを挑んだ神であるタケミナカタ命は結果天津神に敗れるが、諏訪に逃れて悪魔ではなく、神となってるでしょう。日本にはルシファーのような悪魔はいないのです。おどろおどろしいけど国生みの神であるイザナミにしても神として祀る神社は日本に数多くある。
500年前の母のご先祖が、石見三宮を奉じていた時期があるという真偽の定かでは噂を昨年耳にした。三宮(正式名:大祭天石門彦神社)はあまり馴染みのない古社だった。そこに天津神である天石門別神とタケミナカタ命を隣神としてお祀りしてる。天石門別神と言えば天の岩戸神話で大岩をこじあけた神である。ともに力持ちなのだけれど・・・・。
霊能者さん曰く「その神社に謝りたいけどいけないときはお賽銭を別の神社でさしあげて許しをこうても良い」とのことだった。正式には奉納するお賽銭にはある工夫がいるんだけど割愛します。それはきっと正式な作法や祭式ではないと思いますので。で、この3か月前に実践した。
いま三宮は神楽会場として利用されている。いつ訪れても神はその場所にいない。ご神体は裏山の大岩。古代の巨石信仰の聖地だったのだろう。過去は交通の要所でもあった。でもいない。
元は三宮の摂社だと思うけど内にある足王神社(権現さん系だから修験道の色合いが濃い神仏習合の神)の小さな社には猿田彦命はいらっしゃる。霊能者ではないから分からないけど、神々しい存在がそこにある。
で、どこに行ったんだろう?と思っていた。天石門別神(手力男命)がお邪魔するような他のところはあるんだろうか。ああありました。三宮さんは宮司不在で、それでいて由緒がある。ある時期とても荒廃して雑草に覆われていた。だから神楽会場とすることで市が管理して整理しているから境内はきれいだし社も補修されてはいる。でもここには神楽殿がない。だから拝殿を会場としてる。そこは神の祈り場ではない。しかしここも掛け持ちしてくださる別の神社の宮司さんがおられてお祀りされている。
名前や雰囲気が違うし、社格もかけ離れているが、その宮司さんの一族が元々三宮を奉じていたらしい。のだ。文献を見た訳ではないけど人から訊いた。1200年の歴史を持つ古社であり、市内でも有名な商売の神。
今回、呼び出しを食らったとき、「どっち?」と思った。まあこっちと思ったのには理由があるけど、三宮にはなぜか足が向かなかった。・・で今思うと、天石門別神もタケミナカタ命も、こっちにおられるじゃないかと思った。その宮司さんに祈願をお願いしたこともある。なんとなく神に愛されてる人なのだ。若い方だが、そういう趣きのある人物である。あっちでお願いしたのにこっちに呼ばれた。カン違いして神主N同様に憎んでしまった神社そのものに、タケミナカタ命が合祀されていたからだ。八幡宮に祀られる神としては珍しいのかな?でも戦国時代の武将は武神を尊んだ。タケミナカタ命もまた闘う神だから・・・・・。
霊能者さんによるお賽銭の話を行うとしたら同系統の神様がいる社がふさわしいと思い、三宮に出向いた。で、満願叶ったのか、違う場所に呼び出された。けど、今度改めてまいろうと思う。例祭ならば戻られるだろうしね。いまはただの聖域。おいらが言うのもなんだけど、浜田市の人はもっと参拝するべきだ。氏神神社定義もあるけど社格は正一位だし石見三宮である。すなわち市内全体の総氏神さまと言うことなのです。ご神体やエリヤをパワースポットして紹介しているブログなどもあって意外と県外の参拝者は多い。総べる氏神さんです。神様は忘れちゃうと消えちゃいますからね。市を代表する神様ですから誇りにしないといけないです。そうすれば座す神はいつもその場所にいて貰えます。
その宮司さんと神主Nは真逆。人徳なんてありません。もう口を開けば誰かの悪口。それもドを超えている悪態。なんでそんなに腹が立つのか。認めて欲しくて悔しいのならば精一杯精進して仕事すればいいのに怠け者。「出来る人間がやればいいじゃん」それこそ出来ない人間が口にしてはいけない言葉。悪態、自慢、またまた悪態。日々その繰り返し。普通の人間は嫌になりますよね。別段話が旨いとか、既知にとんでるはずもない。・・・でも変わったのは親父さんが亡くなったころかな。何かを引き継いで何かを失った。人懐っこい人だと思っていたけど今はその面影もない。邪悪そのもので、常に周囲を気にしてる。実際にアレがおいらの氏神さんの宮司家ならばほかに行きます。アレの生活のために賽銭したり寄付は出来そうもない。
まあNの威張る町は神道を信仰する人が多いと訊く。でもね、おいらの町には由緒ある社が多い。だから中心はこっちだぞ。まあちょっとだけ戦争の影響がひどくて仏教の方が強いけど。だからね、そう言うことではなくて神さんを敬いましょうね。神さんがちゃんと座すことが出来ないような何らかの力が働いているとしか思えないような有様。せめて神楽をタダ見しないで、賽銭はあげましょう。それではいくらスピ系のまじないをしても、パワースポットや伊勢や出雲大社に出かけても大きなご縁はいただけません。もし貰った気持ちでいてもしっぺ返しが来ちゃいますよ。作法や礼節を重んじるのが神道です。おいらは逆から始めたからこそ、その意味が分かります。順番を守ってこそ、謙虚な心こそ、届くんです。それは自分に届くと言うことなのです。
タケミナカタ命にしっかりと思いが届いた気がします。カン違いしたのはおいらが悪い。間違いに気づいて、もう一年。もし犠牲が必要だったのならば時間と心を犠牲にした。今は格好悪い中年の太ったオジサンだから・・・・。まああと数日でみんな終わる。自分の中で決めた戒めを解き放てる。
変な感じだけど、そういうことなんだろうと思う。そして誰かの悪事は暴かれ裁かれる。それが誰かも分からないけど大事が起きる。まっ、それはおいらには無関係なことになるんだけどね。その時限爆弾のタイマーがあることをおいらは知っていたから、知らずにいた人らは唖然とするだろう。世の中にそんなおいしい話はない。それは神主Nが祈ったからではない。そう信じ込まされた人たちがいる。みな一様に弱みを握られている。屈する方がラクだからだ。そもそも二年前の復活劇が奇跡(企みですけど。金の匂いがプンプンする)みたいでしたから、それを利用したのだろうけど、それがそもそもの過ち。延命する意味が分からない。当然のように「守られてる」。それじゃいけない。まずはその「守り」の期待に応えないと。それはきっとできていないと思う。察するかな?他人の力や行動力を自社のスキルや信用だとカン違いしてる趣きがある会社だったから。地元の名士がやってる会社です。ヒエラルキーもたくさんあって不満はそこかしこにあった。見ないふりするのがとても上手な人たちばかり。あれじゃ補〇金尽きれば終わります。半パブリックを主張するならマイナスもちゃんと計上しないとね。利己主義は人をあきれさせるだけ・・・・。
どんな理屈がまかり通ろうとも、上位ランカーをバカにしちゃいけません。一年前に取り返しがつかないことをやってしまっている。きっと上位ランカーは騙されたと思うだろうから、もう協力は望めない。そん時の出来事を盾に取れば言い分は通るだろう。そういう機会を与えてしまったことが、ほんの少し悔やまれる。神主Nと元上司は嫌いだったけど、会社も社長も好きだったから。それは最後のご奉仕で何とか阻止したいと思っていたけど、関係各位のバランスが思った以上に悪化してた。担当さんを恨むじゃないが、彼の得意な戦術は、おいらたちが望むこととは違っていた。でも担当を可愛がったのもまたおいら・・・・。バランサーのつもりでいた。でもね、台を失くしたバランサーは案山子にもなれないことを学んだ。おいらにすれば苦しかったけど有意義な引きこもりの一年だった。棒に振る。それが重要で必要な時間であった。と、それは今後の人生で証明していかないといけない。体験だぞ。人生の夏休みを取りすぎたから(笑)。
まっ、ひとつひとつほどけてる。絡まった糸がほぐれてる。
ようやく自分にたどり着いた(笑)。魔物ちゃん作用なら。二度と来るなぁーーーーーーーーーー。
でも一人でいっぱいの自分ってこんなに心地いい事すら忘れていたぞ。
解けた。解けた。
その意味することが少々恐ろしくもありますが、それが定めならしょうがない。それはおいらの想いとは別にあって、そうなるしかならなかったと言うことしかないのだから。
あと一押し。あとひとつ。
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