何やら日本全国でネット回線が不安定になってるらしい・・・。サイバー攻撃かなぁ?
北の戦略の基本は、核・ミサイル・サイバーなんだってね。
なんか辛い。
あの話題に走ったからだろうかねぇ・・・。
拮抗してる。
壊そうとする力と閉じ込めようとする力・・・。
『明治維新150周年』のコピーに反対行動が起きてるらしい。海外からも批判があるから、観光PRに相応しくないと。当たり前じゃ山口県のバカ。
その点、京都は抜かりない。「大政奉還150周年」をコピーに幕末の志士をあつかってるし、その中には慶喜公や会津藩主もいる。さすが観光立県。
山口県の萩市で”明治維新150周年”なんてタイトルで観光PRをすれば右翼集会みたいな感じがする。せっかくの明治世界遺産も台無し・・・。現在の日本の礎を築いたなど間違っても誇らしく思って欲しくない。
西洋をドぱくりして、宗教改革して、軍事国家にしただけだろ?江戸城無血開城で終わった話なのに、イギリスにそそのかされて残虐非道を行っただろう。大政奉還で完結したことなのに・・・ああイヤだイヤだ。
ああいう好戦的な人たちが近い場所にいたなんて・・・悪夢でしかない。長州では激しい差別があったらしいが、憎しみを幕府に向ける前に長州藩内に向けれればいいこと。恨む相手も間違ってる・・・。こういう身勝手な思想で築き上げたものを壊そうとするから矛盾が生じて、日本はあの時に狂ってしまったというのに・・・。
明治維新を再評価してる連中ってただの右派でしょ?変革が格好いいと思うのはガキだと思うんだよね・・・。
実際に志士の生家や城跡見て、松陰神社推しするよりも、世界的に珍しい地形である阿武火山群をPRすればいいのに。東アジア情勢が乱れてるときに「明治維新」など持ち出す方がどうかしてる。親日国である台湾も傷つけてるんだぞ。そして多くの日本人も維新に心をいまだに痛めてる・・・。
もう安倍マジックも通用しないんだから、維新が格好いいという解釈は辞めて欲しいぞ。あんなものは愚の骨頂でしかない。
日清戦争の戦死者は13,309人(うち病死11,894人)、日露戦争の戦死者は約84,000人とある。第二次世界大戦は200万人以上の戦死を生んでるんだぞ。西洋の宗教を基盤にした社会体制を真似ずにいたら、こんな最悪の結果にはならなかった。他国の戦死はね、キリスト万歳!とかチャーチル、ルーズベルト万歳!なんて言って死んでないんだよ。
家族を思って死んだのに・・・”天皇万歳!”で玉砕したって未だに語られてるし、それを美談にしてる素っ頓狂な人までいる。おいらは「神仏分離令」「廃仏毀釈令」ほど日本人の心を踏み躙った政令はないと思うんだ。神話の神々は是なんだから何をやっても許される。そんなことも知らずに日本の宗教基盤を壊したから、あんな風になったんだ。
その二つが新政府を指揮した長州属の大罪だと思ってる。日本の歴史は時代の宗教性を無視して語るけど、寺を壊し仏像を焼き捨てた民衆の心の中には消えない”バチ”が生まれたんだよ・・・。
刀からピストルに持ち替えることに抵抗した薩摩藩の方が遥かにマシ。武士の誇りを捨てた長州人が貴族らに操られ行ったのが明治維新だと思うんだよね・・・・。民間が誇れるような話じゃない。
神社神道がいまだに正当性を主張するけど、ちゃんと反省したんだろうか?戦争責任は政府と陸海軍にあると思うけど、少なからず神道の精神性にも戦争責任はあると思うんだよね。おいらも過程の中で、憎しみを増長する「力」のような存在は感じたし、絶対に負けない、負けるわけにはいかないという感覚に一時的に支配された。あの精神性は仏法からは巻き上がらない。だって殺生を禁じてるのを知っているからだ。神道は神を崇め祀り、誓約をする以外に教義的に”何も禁じていない”。ただ神が”穢れ”を一方的に嫌う訳だ。
天孫の子孫とされる天皇も神とならなかった天皇の方が遥かに多い。神が”死の穢れ”をいちばんに嫌うのに、いちばん嫌うものに守護させようとした。きっと江戸までの神道理念に反することが政府の名の下で行われたんだろうと思う。戦前までの神道への信仰は、政府による強制強要にしか思えない。
それでも日本人は粋だから、ちゃんと神社神道と神道の文化を残した。神社令により崩壊したと言うけれどしょせん信仰は強要に過ぎなかったから崩壊したんじゃないんだろうか。別に廃仏毀釈のように焼き払われることもなかったんだから、それは日本人が再度多様性を重んじたからだろう。
神も仏もないというが、”神がない”と言うのが正解だ。神道には死後の救済がなく、仏教は死後の救済が根本だからである。死人は亡者の国である黄泉へ遣わされる。果たして政府の考えた神道的楽園である靖国は神性世界のどこかにあるんだろうか・・・。神話を読み込めばわかることだと思うけど、神とは人間原理とはかけ離れた存在でしかないんだよね。
あのまま勝てる見込みもなく、精神的に負け続けていたらおいらは廃人だっただろう。軍人さんらが絶対的に負けるわけがないと信仰した神の名前はなんだろう?血塗られた戦場で祝詞を上げる指揮官もいたらしい。神が嫌うことで、神を崇めたら、神と言う者は容赦なくもれなく祟る。なのに修羅場の中で祈りを捧げるなど本当に逸脱してる。
神の怖さを知らぬものが神の威を借りて、社会と言う大きな穢れにより最終的に神を滅ぼした。終戦のあの日、神は死んだのだと思う。今はその抜け殻に化粧をして着物を着せて、何もないモノに何かを与えようとしてる・・・気がする。
とにかくだ。神の性質上、穢れが多いとお隠れになる。たぶんその頃の日本と言う国や国民すべてが穢れになっていたのかも知れない。一億玉砕と言う死の穢れを纏いながら鬼畜米英を唱えていた。神話の中の天皇は人民を救うけど、それは人間として崇高な人物だったからであって、神々は人民など草ほどにしか思っていない。神話の中で、人間を指す蒼生とは草の事である。
まあ神話の残酷物語をバイブルのように解釈して日本人の精神論を語るアホウがいるけれど、どこをどう読み解くとああいい風に思えるのか不思議である。
単純に神は祟るモノで時々子孫である天皇さえも殺すので、崇め祀りあげ、祟りが来ないように障りが来ないように、畏み畏み「禍いがわが身に来ませんように」忌避するだけのものなのに。
そんな不安定な存在に武神の肩書きをつけたりした。まるで嘘っぱちなんだよ。国民の統治目的のために作られた新しい宗教であったのが、国家神道であり、その名残が神社神道なのだから・・・。戦後の日本人は死生観を分けてしまう。死は仏教、生は神道と・・・。だから神道に宗教性はなくなったんだと思う。戦勝祈願や国家安泰を願った同じ場所で、恋愛運や金運など邪な誓約を立ててる。少なくとも今の神社神道は俗であり、神聖さも失われつつある。
国属主義と一緒に神道の正当性が語られるのは、政策の一つであった神道が未だに政策の枠組みから抜け出していない証拠でもある。だから思うんだよね・・・政府の枠組み内にあるとしたら政教分離の精神に反して一歩も譲れなくなるから、右翼団体から脱して別の道を模索するしかないんだと思う。祝祭日に国旗を揚げるのが右派っぽく見えるのはとても残念なことだと思うし、未だに右派信仰としての要素が強い神道のイメージは現代に合わなくなってきている。
引きはがすことが出来ないであれば、いずれ宗教としての神道は無くなるんだろうなァ・・・。おいらいいお客さんだったと思うけど、いいお客さんを必ずしも御贔屓してくれるわけじゃないから。戦争と切り離して「神格」を再神聖化したいけど、右翼思想が背後に見えて神性さが滲んでしまう。神はずっと怒ってて、その怒りの矛先を探しているような気持ちにさせる。だから気持ちが悪くなる。
ある古神道研究家が「貧乏は病気だから神さまが直してくれる」と財布を売り出した。アン・ミカが(ご利益)財布は売りませんよと言うが、それは正しいことだと思う。あくせく真面目に働いて貧乏なのが病気と言われたら立つ瀬ないよね。どこの引き出しや書籍を探したら、貧乏が病気と書かれているんだろう。
そんな風に神の概念とは無色透明で意味は何万通りもあるんだろう。路傍の石に、遥かな空の彼方に人は神聖を感じている。それでいいんじゃないのかなぁ。神と共にあると言うのは、神社と共にあることと違う気がする。
明治維新150周年は目に悪い、目の毒だ。その言葉に傷つく人がいる以上、万人向けて発することではない。もし明治維新をポジティブに捉えてる人がいたら、それは・・ね。右傾化してると思った方がいい。政変や戦争を美化するのはどこの国でもやっているけど、日本人は当時の熱気をもう忘れてしまっているから、どうしてのネガティブに受け止めてしまう。少なくとも被害国に対して遠慮することはないと思うが、国内にはまだ維新を痛みのように感じる地域の人がいる以上はコピーに使用するのは控えるべきだと思う。
福井国体のキャッチフレーズから「明治維新150周年記念」とハズすように各位から要請があったようだ。国体を何気なく口にするが、国民体育大会が、戦前の国の体制を指す「国体」と同じなのは少し悲しい気持ちになる。まだね、国体=戦前の日本を結び付ける世代がたくさんいる。それに150周年の周年を冠に抱かせる理由もない。
大化の改新が改められたように、明治維新を公に「あれは軍事クーデターの側面もあった」と語られるような時代が来たら周年を祝ってもいいんじゃないのかなぁ・・・。
今の歴史教科書では日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵が大仙山古墳と紹介されているのに少しビックリした。大仙山古墳は今も宮内庁の管轄地なのだが、学術調査を宮内省が断ったから、不確定な理由では仁徳天皇陵と認められないとして大仙山古墳となったらしい。立ち入り調査をして仁徳天皇を指し示す遺跡がでるとは思わないけど・・・証拠がないと認められないというのもケツの穴の小さな話であるなァ。
で今は大仙山古墳(旧仁徳天皇陵)と記載する教科書が増えてきたんだって。そこでも右翼論が爆発していたぞ。嫌な感じだ。まあ天皇陛下は象徴であって、元首とは憲法に記載がない。けれど他国の王族のように天皇は国家元首として認められている。これも構造的には自衛隊問題と同じダブルスタンダードな訳である。
おいらは天皇制に反対する気はないし、女性であろうと天皇になってもいいと思う。まず条件として民衆に慕われることこそ役目ではないかと思うからである。皇統性や男系文化については天照大神を主神としているのだから、そこに矛盾はないと思うだけ。国王=男性と言う考えは男性的な思想でしかないわけだしね。
でも仁徳天皇陵は仁徳天皇陵でいいと思うんだ。そういう歴史ロマンは共通認識としてあった方がいい。おいらたちの世代は大仙山古墳が世界遺産登録って?どこのなに古墳なんだ?」と思ってしまう。
でも「明治維新」周年はダメ。
古臭いのかなぁ・・・脳みそ(笑)
北の戦略の基本は、核・ミサイル・サイバーなんだってね。
なんか辛い。
あの話題に走ったからだろうかねぇ・・・。
拮抗してる。
壊そうとする力と閉じ込めようとする力・・・。
『明治維新150周年』のコピーに反対行動が起きてるらしい。海外からも批判があるから、観光PRに相応しくないと。当たり前じゃ山口県のバカ。
その点、京都は抜かりない。「大政奉還150周年」をコピーに幕末の志士をあつかってるし、その中には慶喜公や会津藩主もいる。さすが観光立県。
山口県の萩市で”明治維新150周年”なんてタイトルで観光PRをすれば右翼集会みたいな感じがする。せっかくの明治世界遺産も台無し・・・。現在の日本の礎を築いたなど間違っても誇らしく思って欲しくない。
西洋をドぱくりして、宗教改革して、軍事国家にしただけだろ?江戸城無血開城で終わった話なのに、イギリスにそそのかされて残虐非道を行っただろう。大政奉還で完結したことなのに・・・ああイヤだイヤだ。
ああいう好戦的な人たちが近い場所にいたなんて・・・悪夢でしかない。長州では激しい差別があったらしいが、憎しみを幕府に向ける前に長州藩内に向けれればいいこと。恨む相手も間違ってる・・・。こういう身勝手な思想で築き上げたものを壊そうとするから矛盾が生じて、日本はあの時に狂ってしまったというのに・・・。
明治維新を再評価してる連中ってただの右派でしょ?変革が格好いいと思うのはガキだと思うんだよね・・・。
実際に志士の生家や城跡見て、松陰神社推しするよりも、世界的に珍しい地形である阿武火山群をPRすればいいのに。東アジア情勢が乱れてるときに「明治維新」など持ち出す方がどうかしてる。親日国である台湾も傷つけてるんだぞ。そして多くの日本人も維新に心をいまだに痛めてる・・・。
もう安倍マジックも通用しないんだから、維新が格好いいという解釈は辞めて欲しいぞ。あんなものは愚の骨頂でしかない。
日清戦争の戦死者は13,309人(うち病死11,894人)、日露戦争の戦死者は約84,000人とある。第二次世界大戦は200万人以上の戦死を生んでるんだぞ。西洋の宗教を基盤にした社会体制を真似ずにいたら、こんな最悪の結果にはならなかった。他国の戦死はね、キリスト万歳!とかチャーチル、ルーズベルト万歳!なんて言って死んでないんだよ。
家族を思って死んだのに・・・”天皇万歳!”で玉砕したって未だに語られてるし、それを美談にしてる素っ頓狂な人までいる。おいらは「神仏分離令」「廃仏毀釈令」ほど日本人の心を踏み躙った政令はないと思うんだ。神話の神々は是なんだから何をやっても許される。そんなことも知らずに日本の宗教基盤を壊したから、あんな風になったんだ。
その二つが新政府を指揮した長州属の大罪だと思ってる。日本の歴史は時代の宗教性を無視して語るけど、寺を壊し仏像を焼き捨てた民衆の心の中には消えない”バチ”が生まれたんだよ・・・。
刀からピストルに持ち替えることに抵抗した薩摩藩の方が遥かにマシ。武士の誇りを捨てた長州人が貴族らに操られ行ったのが明治維新だと思うんだよね・・・・。民間が誇れるような話じゃない。
神社神道がいまだに正当性を主張するけど、ちゃんと反省したんだろうか?戦争責任は政府と陸海軍にあると思うけど、少なからず神道の精神性にも戦争責任はあると思うんだよね。おいらも過程の中で、憎しみを増長する「力」のような存在は感じたし、絶対に負けない、負けるわけにはいかないという感覚に一時的に支配された。あの精神性は仏法からは巻き上がらない。だって殺生を禁じてるのを知っているからだ。神道は神を崇め祀り、誓約をする以外に教義的に”何も禁じていない”。ただ神が”穢れ”を一方的に嫌う訳だ。
天孫の子孫とされる天皇も神とならなかった天皇の方が遥かに多い。神が”死の穢れ”をいちばんに嫌うのに、いちばん嫌うものに守護させようとした。きっと江戸までの神道理念に反することが政府の名の下で行われたんだろうと思う。戦前までの神道への信仰は、政府による強制強要にしか思えない。
それでも日本人は粋だから、ちゃんと神社神道と神道の文化を残した。神社令により崩壊したと言うけれどしょせん信仰は強要に過ぎなかったから崩壊したんじゃないんだろうか。別に廃仏毀釈のように焼き払われることもなかったんだから、それは日本人が再度多様性を重んじたからだろう。
神も仏もないというが、”神がない”と言うのが正解だ。神道には死後の救済がなく、仏教は死後の救済が根本だからである。死人は亡者の国である黄泉へ遣わされる。果たして政府の考えた神道的楽園である靖国は神性世界のどこかにあるんだろうか・・・。神話を読み込めばわかることだと思うけど、神とは人間原理とはかけ離れた存在でしかないんだよね。
あのまま勝てる見込みもなく、精神的に負け続けていたらおいらは廃人だっただろう。軍人さんらが絶対的に負けるわけがないと信仰した神の名前はなんだろう?血塗られた戦場で祝詞を上げる指揮官もいたらしい。神が嫌うことで、神を崇めたら、神と言う者は容赦なくもれなく祟る。なのに修羅場の中で祈りを捧げるなど本当に逸脱してる。
神の怖さを知らぬものが神の威を借りて、社会と言う大きな穢れにより最終的に神を滅ぼした。終戦のあの日、神は死んだのだと思う。今はその抜け殻に化粧をして着物を着せて、何もないモノに何かを与えようとしてる・・・気がする。
とにかくだ。神の性質上、穢れが多いとお隠れになる。たぶんその頃の日本と言う国や国民すべてが穢れになっていたのかも知れない。一億玉砕と言う死の穢れを纏いながら鬼畜米英を唱えていた。神話の中の天皇は人民を救うけど、それは人間として崇高な人物だったからであって、神々は人民など草ほどにしか思っていない。神話の中で、人間を指す蒼生とは草の事である。
まあ神話の残酷物語をバイブルのように解釈して日本人の精神論を語るアホウがいるけれど、どこをどう読み解くとああいい風に思えるのか不思議である。
単純に神は祟るモノで時々子孫である天皇さえも殺すので、崇め祀りあげ、祟りが来ないように障りが来ないように、畏み畏み「禍いがわが身に来ませんように」忌避するだけのものなのに。
そんな不安定な存在に武神の肩書きをつけたりした。まるで嘘っぱちなんだよ。国民の統治目的のために作られた新しい宗教であったのが、国家神道であり、その名残が神社神道なのだから・・・。戦後の日本人は死生観を分けてしまう。死は仏教、生は神道と・・・。だから神道に宗教性はなくなったんだと思う。戦勝祈願や国家安泰を願った同じ場所で、恋愛運や金運など邪な誓約を立ててる。少なくとも今の神社神道は俗であり、神聖さも失われつつある。
国属主義と一緒に神道の正当性が語られるのは、政策の一つであった神道が未だに政策の枠組みから抜け出していない証拠でもある。だから思うんだよね・・・政府の枠組み内にあるとしたら政教分離の精神に反して一歩も譲れなくなるから、右翼団体から脱して別の道を模索するしかないんだと思う。祝祭日に国旗を揚げるのが右派っぽく見えるのはとても残念なことだと思うし、未だに右派信仰としての要素が強い神道のイメージは現代に合わなくなってきている。
引きはがすことが出来ないであれば、いずれ宗教としての神道は無くなるんだろうなァ・・・。おいらいいお客さんだったと思うけど、いいお客さんを必ずしも御贔屓してくれるわけじゃないから。戦争と切り離して「神格」を再神聖化したいけど、右翼思想が背後に見えて神性さが滲んでしまう。神はずっと怒ってて、その怒りの矛先を探しているような気持ちにさせる。だから気持ちが悪くなる。
ある古神道研究家が「貧乏は病気だから神さまが直してくれる」と財布を売り出した。アン・ミカが(ご利益)財布は売りませんよと言うが、それは正しいことだと思う。あくせく真面目に働いて貧乏なのが病気と言われたら立つ瀬ないよね。どこの引き出しや書籍を探したら、貧乏が病気と書かれているんだろう。
そんな風に神の概念とは無色透明で意味は何万通りもあるんだろう。路傍の石に、遥かな空の彼方に人は神聖を感じている。それでいいんじゃないのかなぁ。神と共にあると言うのは、神社と共にあることと違う気がする。
明治維新150周年は目に悪い、目の毒だ。その言葉に傷つく人がいる以上、万人向けて発することではない。もし明治維新をポジティブに捉えてる人がいたら、それは・・ね。右傾化してると思った方がいい。政変や戦争を美化するのはどこの国でもやっているけど、日本人は当時の熱気をもう忘れてしまっているから、どうしてのネガティブに受け止めてしまう。少なくとも被害国に対して遠慮することはないと思うが、国内にはまだ維新を痛みのように感じる地域の人がいる以上はコピーに使用するのは控えるべきだと思う。
福井国体のキャッチフレーズから「明治維新150周年記念」とハズすように各位から要請があったようだ。国体を何気なく口にするが、国民体育大会が、戦前の国の体制を指す「国体」と同じなのは少し悲しい気持ちになる。まだね、国体=戦前の日本を結び付ける世代がたくさんいる。それに150周年の周年を冠に抱かせる理由もない。
大化の改新が改められたように、明治維新を公に「あれは軍事クーデターの側面もあった」と語られるような時代が来たら周年を祝ってもいいんじゃないのかなぁ・・・。
今の歴史教科書では日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵が大仙山古墳と紹介されているのに少しビックリした。大仙山古墳は今も宮内庁の管轄地なのだが、学術調査を宮内省が断ったから、不確定な理由では仁徳天皇陵と認められないとして大仙山古墳となったらしい。立ち入り調査をして仁徳天皇を指し示す遺跡がでるとは思わないけど・・・証拠がないと認められないというのもケツの穴の小さな話であるなァ。
で今は大仙山古墳(旧仁徳天皇陵)と記載する教科書が増えてきたんだって。そこでも右翼論が爆発していたぞ。嫌な感じだ。まあ天皇陛下は象徴であって、元首とは憲法に記載がない。けれど他国の王族のように天皇は国家元首として認められている。これも構造的には自衛隊問題と同じダブルスタンダードな訳である。
おいらは天皇制に反対する気はないし、女性であろうと天皇になってもいいと思う。まず条件として民衆に慕われることこそ役目ではないかと思うからである。皇統性や男系文化については天照大神を主神としているのだから、そこに矛盾はないと思うだけ。国王=男性と言う考えは男性的な思想でしかないわけだしね。
でも仁徳天皇陵は仁徳天皇陵でいいと思うんだ。そういう歴史ロマンは共通認識としてあった方がいい。おいらたちの世代は大仙山古墳が世界遺産登録って?どこのなに古墳なんだ?」と思ってしまう。
でも「明治維新」周年はダメ。
古臭いのかなぁ・・・脳みそ(笑)
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