工事はまだ続いていた。土盛りを移すだけなのに、随分、時間が掛かっているね。でも、塚はすっかり姿を消していた。どうなっちゃうの?
▲路上から見ると、塚は「すっかり消滅か!」って感じに見えちゃう。どこへ行っちゃたの?本当は撤去なの?
▲でも、現地の工事看板を見ると、「富士塚再整備工事」って大きく書かれているんで、取り敢えず大丈夫かな。8月には工事は終わるんだろうか。
▲工事の詳細も掲示されている。
▲完成予想図まで出ている。塚の規模は縮小されるが、正面から登る、あの急階段は再現されるみたいだ。
▲工事用の柵の網目の間から、現地の様子を見ると、塚は隅の方に僅かに残っているだけ。。。
移設をすると言う事だったが、これは完全に造り替えって感じだ。どうやら、単なる移設工事じゃなくて、遺跡発掘しながららしい。だから、時間が掛かっているんだね。
塚からは江戸時代の陶器片だけでなく、もっと前の時代のものも見つかったらしい。ほか、戦中の防空壕の跡も出て来たとのこと。胎内を流用した訳ではないのかな。そんな説明書きが現地の説明板に写真付きで書かれていた。
▲前面道路は殆どの家屋は無くなっており、直ぐにでも拡幅工事に着手出来そう。富士塚の移設工事の完了を待ってくれているのかな。
(この道路は、王子にある北区の区役所前の道からこの富士塚横を通り、環七を突っ切って、最終的には赤羽駅の西口ロータリーに通じる)
かつて、山頂にあった小祠は、今も厳重に囲われた柵の中に健在だ。新たに説明板も新設され、今、初めてこの富士塚を見に来た人にも、これが何なのか分かる様になっているのは〇だね。
▲こんな厳重な保管はなかなか見たことない。
▲柵の左側に説明板が取り付けられている。
--------<説明板>-------------------------------
北区指定有形民俗文化財
十条富士塚
北区中十条二-十四-十八
十条富士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、富士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(1840)十月には富士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(1881)に造流されています。この年は、富士講中興の祖といわれた食行身禄 、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当たりました。石造物の中に「富士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際に富士山を模す様に溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
平成四年三月
北区教育委員会
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▲様々な説明資料が設置されている。
▲柵の網目にカメラのレンズを入れて撮影。ちゃんと管理されている様だね。
▲周りはぐるっと一周出来る。裏からはこんなに接近!
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北区中十条2丁目14 (富士神社)
令和4年4月30日(土) 18℃くらい・この時期にしてはやや涼しい
(4月も終わりだと言うのに、北の方では雪が降ったらしい。今年のゴールデンウィーク前半は天候が変わりやすい予報)