98歳 文化交流と平和を守る

発明普及振興に勤しんでる現役98歳。「恩返しの人生」を送っています。ブログの原稿は息子に頼んでUPしてもらっています。

動画 お外でそらおと

2021-05-15 23:46:17 | 日記
終戦間近に建造されていたという資料をもとに島根県松江市美保関町の七類港沖の九島。
七類の自治会町さんのお話しを伺って、次の日(最終日)に、同じ時期に出雲市の斐川河川に造られた旧海軍大社基地跡に向かいました。
島根県の戦争遺跡の調査をしている戦後史会議・松江の若杉さんにもアポが取れました。
現地(大社基地跡)でお会いすることが出来ました。

動画は、たかこさんが作ってくれました。
終戦間近、わたしは山口県熊毛郡平生町の柳井分校に特殊潜航挺蛟龍の乗組員として志願し出撃を待ち終戦をむかえましたが、同時期に美保関町七類の蛟龍基地、そして斐川の大社基地(同期甲飛14期の人間が何人か作業に行っていました)を建造していたという事実とその痕跡を知った訳ですが、わたしの中にある終戦間近の島根県という項に新たな1ページが加わりました。
わたしは戒名をいただき特殊潜航挺に志願しました。
終戦があと数週間遅ければ沖縄に向かって出撃していたはずです。
しかし、出撃することなく生きてしまった…。これは、戦後から90歳になるまでの間、ずっと自分の胸に秘めていたことです。
しかし、90歳を越えたあたりから、自分の足が動く限り、自分の足であの時、違う場所で何が起きていたのか、それらが残っている様々な場所に訪れてたみたいと思うようになってきました。

今回は、墓参りを兼ねて息子達に連れていってもらいましたが、島根県(安来市・松江市、鳥取県境港市美保海軍航空隊)はわたしが生まれ育ち、戒名をいただき山口県に向かうまで過ごした大事な場所です。
自分の人生を振り替えった時、同じ時期に、違う場所で、何があったのかを知ると、つくづく自分という人間は、本当に生かされているのだということを再確認することが出来ました。




特殊潜航挺の基地が島根県にもありました。

2021-05-14 04:12:05 | 日記
美保基地資料館を後にし、かつてわたしが予科練に入り寝起きをしていた兵舎だったと思われる場所や特攻を志願し山口県熊毛郡平生町の柳井分校に向けて乗車した境港線大篠津駅などを見てまわり松江に戻りました。
車の中で明日の予定として島根半島の七類港に行く話しをしながら、資料館で数々の資料を見てまわったので、少しお腹が減りました。(笑)
コロナ禍で飲食店を探すのは大変でしたが、何とか食事をすることが出来ました。食後は、宍道湖畔にあるスタバでコーヒー。
スタバのコーヒーカップは大きいですね。
とーるというのですか?






島根半島にある七類港は隠岐の島に向かうフェリーが就航しているところは知っていますが、息子が蛟龍について色々調べいる時、そこに終戦間近に特殊潜航挺の基地が建造されていたという情報を見つけたそうです。
しかし、その基地建造跡が七類港のどこにあるかは判らないので、実際に行ってみようとなりました。

翌日、島根半島の七類港に行きました。九島(くしま)という小さな無人島がありました。
この島が、蛟龍の基地建造跡かも知れません。



七類区の自治会がある場所に行けば、蛟龍の基地建造跡についての情報の手がかりがあるばすだと思い、息子に行ってもらい聞いてみました。












受付をしていただいた方によると、先月蛟龍の建造基地跡に自治長を含め資料を保存している方達と島に渡ったとのこと。タイミング良く自治長さんがいれば詳しく話が聞けるはずなので連絡してみますと…。
本当にありがたいことです。
いわゆるアポ無しっていうのでしょうが、快く対応してくれました。

数分で自治長さんがいらっしゃりました❗️


実際に自治長さんは島に渡り蛟龍の建造基地跡を見てきたので色々とお話しを伺うことが出来ました。
更に、この基地跡について調べている戦後史会議・松江というグループがあることを教えていただき、島根県の戦争遺跡の資料保存をしているそうです。

わたしは、昭和20年の5月末に特殊潜航挺蛟龍の搭乗員になる為に山口県熊毛郡平生町に向けて移動した直後に、この蛟龍の基地建造が6月から始まったそうです。ということは当たり前かもしれませんが、この蛟龍の基地が建造されることは知らなかったです。
特殊潜航挺蛟龍については海軍の㊙️事項だったので一部の人しか知りませんし、ほとんど記録にも残っていないと思われます。特殊潜航挺は、回天か、蛟龍かも判らないほど資料が残っていないのです。
戦後史会議・松江の方々は、それでも地道に調査し現地に足を運び当時を知る人に訪ねて歩き、最近になってようやく蛟龍の基地建造跡だと判明したそうです。

わたしは長年にわたり特許の調査などをしてきましたから、地道な調査作業の大切さを知っている人間です。
今はインターネットで簡単に情報が早く手に入りますが、やはり現地に足を運ぶ大切さはインターネットの時代であっても変わらないと思います。
眼に入っただけの情報と体感した情報では、質はもちろんのこと自分の貴重な体験になります。
眼による知識だけではもったいない。
体を動かし使った時間は、必ず何かしらの結果となって自分に戻ってきます。
無理をしたら疲労が戻ってきますし、良き働きかけをしたら幸いが戻ってきます。

明日は、墓参りを含めた松江滞在最後の日です。
午後4時には大阪に戻ります。
それまでに、どうしても戦後史会議・松江の方にお会いし、出雲の大社基地跡にも行きたいと思い、急遽息子にアポを取ってもらいように頼みました。

明日は、明日の良き風が吹くことでしょう。





美保海軍航空隊

2021-05-04 02:24:07 | 日記
75年ぶりに訪れた美保基地(資料館)で、広報班・班長井上一等空尉の詳しい説明を聞きながら当時の記憶が少しずつ蘇ってきました。
美保空は予科練生の大量募集を受け施設が間に合っていませんでした。14期だけでも4500人がおりました。
朝6時に起床から就寝までの分刻みの毎日でした。
予科練の教育は極めて激しく厳しいものでした。歯を食いしばり日夜訓練に取り組みました。




そして昭和20年5月中旬に特殊兵器搭乗要員として志願し大篠津駅から軍用列車に乗って、山口県熊毛郡平生町の柳井潜水分校に向かいました。
当時の大篠津駅は、現在の大篠津駅とは違っていることを井上一等空尉から伺い、又わたしが寝起きした宿舎の場所も、だいたいこの辺りではないかと教えていただきました。


現在の大篠津駅


この辺りに宿舎があったはずです。


普段なら1時間以上も立って話しを聞くことなど出来ないのですが、この時ばかりは疲れを感じませんでした。
実年齢は95歳ですが、気持ち年齢は18歳に戻っていたようです。
あっという間の時間でした。

あらためて、航空自衛隊美保基地、基地渉外室広報班・班長井上一等空尉に感謝いたします。





続く