2009年5月3日 軽井沢宿~岩村田を歩いた。
それでも、旧軽井沢の町はたくさんの人出。レンタル自転車での観光風景は、以前と変わっていなかった。中山道を歩き始めても、しばらくは、観光地軽井沢。家族連れやカップルと幾度もすれ違った。沿道には、イタリアンレストランが多く、ガーリックの香りが漂っていた。開店待ちの列ができている店もあれば、客引きのウェイターさんが声をかけてくる店もあった。喧騒を抜けると、別荘型マンション地帯。次々とあるのには、びっくりした。逆に以前から別荘があったらしい更地があったり、長く手入れのされていないような建物があったり。変わりゆく軽井沢とは聞いていたが、まさに聞いた通りだった。
車はびゅんびゅん通るけれど、やがて、行き交う人はほとんどいなくなった頃。道祖神を見つけ、いよいよ街道歩きらしくなってきた。石垣には、芝桜が綺麗に咲いていた。
これから先の道々でも、白やピンクの芝桜を這わせているお宅が多くあり、とてもきれいだった。そのほかにも、桜やしゃくなげ。たんぽぽ。すみれ。佐久に近づくとリンゴという具合に、春の花を楽しむ歩きにもなった今回だった。
右手奥に、『離山』が見えてきた。標高1256m。テーブルのようになだらかな形をしていることから、別名『テーブルマウンテン』と呼ばれているが、ここからは頂上付近しか見えない。『浅間山の吹き出物』という別名もあるそうだ。頂上までは、1時間ほどで登れるそうで、旧軽井沢の町が見下ろせて、浅間山や、富士山も見えるそうだ。
道の左側にあった東部小学校は、とても、きれいな小学校だった。しばらくしたら、今度は古くて使っていないような学校があったので、移転したのかなあと言いながら歩いた。
街道歩きの楽しみは、和菓子屋さんやケーキ屋さん、パン屋さんなど、おいしいものを見つける楽しみもあるのに、今回は、軽井沢を抜けて以来、ずっとそんなお店がなかった。
ようやく見つけたのが、『japanese sweet 和』
店の作りが新しく、創業○○年という感じではなかったので、一度は通り過ぎたけれど、やっぱり気になって立ち寄った。店先のテーブルで頂くことができた。みたらしと柏餅(みそあん)計340円だけでは申し訳ないようだ。ずっと歩いてきたので、一心地つけて嬉しかった。『金太郎』と『梅丸』という金柑と梅の煮たものが入っているお菓子をお土産にした。
ようやく見つけたのが、『japanese sweet 和』
店の作りが新しく、創業○○年という感じではなかったので、一度は通り過ぎたけれど、やっぱり気になって立ち寄った。店先のテーブルで頂くことができた。みたらしと柏餅(みそあん)計340円だけでは申し訳ないようだ。ずっと歩いてきたので、一心地つけて嬉しかった。『金太郎』と『梅丸』という金柑と梅の煮たものが入っているお菓子をお土産にした。
一休みして元気になり、道を進めた。土筆があった。毎年、すぎなになってから
「ああ、こんなところに土筆があったんだ」
と気づくことばかりだった。こんなにたくさんの土筆、久しぶりに見た。
と気づくことばかりだった。こんなにたくさんの土筆、久しぶりに見た。
中軽井沢駅の旧名は、沓掛駅。駅の近くで、線路をくぐった。駅の裏に一里塚の跡が残っているらしい。沓掛宿のはずれには、草津分か去れの道標が残っていたらしいが、お腹がすいてきて、中軽井沢駅前のそばや「かぎもと」に寄ろうかと思っていたら、行列ができていて、断念しているうちに見逃してしまった。
左に行く女街道があった。下仁田までつながるそうだ。「入鉄砲出女」規制の厳しかった女人がよく利用したことから、この名がついたらしい。
左に行く女街道があった。下仁田までつながるそうだ。「入鉄砲出女」規制の厳しかった女人がよく利用したことから、この名がついたらしい。
国道と離れたり合流したりして先へと行った。国道と逸れると道幅が狭く、くねくねと曲がる旧街道らし道を歩けた。古宿・借宿は、信州と上州を結ぶ物資輸送の中継地点で、中馬中牛稼ぎをして栄えたらしい。道のなだらかな信州路は馬で、険しい上州の道は牛で運んでいたのだそうだ。
あちらこちらに、馬頭観音があった。
あちらこちらに、馬頭観音があった。
追分の一里塚が国道の左右にあった。とても、大きなもので目立つ。これは、国道の拡張工事のときに、再築されたものだそうだ。
近くに『追分宿郷土館』があったので、立ち寄った。追分宿の絵図や、本陣や脇本陣の模型や見取り図、道具類が展示されている。北国街道の分かされの変遷をおった写真があった。明治末期の写真では、原野の中に二手に分かれる道があり燈篭が立っていて、江戸の頃の様子を思い描くことができた。昭和三十年代の写真もあった。私たちが生まれた頃の様子だ。道は舗装されていず、今とは大違い。むしろ明治の写真に近い。。。私たちが子どもの頃って、もう『昔』だ。そういえば、家の前の道も土で、雨が降ればどろどろにぬかるみ、長靴が必需品だったっけ。と妙なところに心を動かされた。
枡形茶屋『つがる屋』など、健在の建物を見ながら歩いた。
昼食は、 追分茶屋「生成」で。軽井沢でとれるそば粉と地下軟水を使用していて、石臼挽きをしたそば粉を100%使った「十割そば」1050円と、「二八そば」950円を食べた。
十割そば、風味がよく、しゃきっとしたのどごしで、とてもおいしかった。
それから、どうしても行きたかった「中山道69次資料館」へ。高校の地理教師だった岸本豊さんが、自ら歩き集めた資料を展示した資料館。歩き始めてしばらくしてから、手作りの案内表示に気づき、「これは、一体誰が作っているのか」と調べてみて見つけたのが、この資料館のホームページ。冬季休業とのことで、開館しているときにここを通るようにしようと思ったことが、前回の中山道歩きから間隔が開いてしまった理由の一つだ。
建物の周りには、中山道のミニコースが造ってある。「渡し」場には、川。橋が掛かっているし、最高地点和田峠は高く盛り土してあるし、本当によくできている。館内は、もっと楽しくて、しかも、館長さんが説明してくれた。「やきごめ」のこと。広重と英泉のこと。japanのこと。中山道と中仙道どっちが正しいかということ。かけはしとはねかけはしのこと。。。この先の行程がなければ、もっと聞いたみたいし、もっと手にとって読みたい資料がいっぱいだった。
もう歩いた所の資料を見て、懐かしく思い出すこともたくさんあった。
建物の周りには、中山道のミニコースが造ってある。「渡し」場には、川。橋が掛かっているし、最高地点和田峠は高く盛り土してあるし、本当によくできている。館内は、もっと楽しくて、しかも、館長さんが説明してくれた。「やきごめ」のこと。広重と英泉のこと。japanのこと。中山道と中仙道どっちが正しいかということ。かけはしとはねかけはしのこと。。。この先の行程がなければ、もっと聞いたみたいし、もっと手にとって読みたい資料がいっぱいだった。
もう歩いた所の資料を見て、懐かしく思い出すこともたくさんあった。
『御代田の一里塚』
わき道を少し入ったところにあった。道路が、旧街道とずれたために、当時の姿をとどめているそうだ。垂れ桜が植えられいた。
わき道を少し入ったところにあった。道路が、旧街道とずれたために、当時の姿をとどめているそうだ。垂れ桜が植えられいた。
中山道とは全く関係がないのだが、御代田町には、理美容室がとても、多かった。そんなに大きな町ではなかったのに、6軒もあった。
『小田井宿』には、出し桁造り縦格子の家が多く残っている。用水も流れていて、風情があった。本陣・脇本陣であった家の表札には、その頃の本陣・脇本陣だった家の名前があり、代々ここに住んで、建物をそのままに残してくれていることがわかる。
岩村田宿に着き、岩村田駅から小海線で佐久平。佐久平から新幹線で大宮まで。
大宮で、米沢の駅弁を買って、家に帰った。
大宮で、米沢の駅弁を買って、家に帰った。