山ぶろぐ

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中山道(松井田~軽井沢)

2011年04月03日 | 旅行
2007年12月27日
松井田宿~軽井沢宿まで歩いた。

 

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前日、西松井田から高崎まで列車で戻り、高崎駅近くの「ホテル1,2,3」に泊まった。安い宿なのだけれど、改装したてたのかとてもきれいだった。おまけに、朝食には、いろんなおいしいパンがあり、ポテトサラダとスープとコーヒー・ジュースがある。無料。次もどこか行くときは、このホテルをチェックしたい。

 

この日も天気がよく、気温は昨日ほど低くない。妙義山の向こうには、雪をかぶった浅間山くっきりと見えた。





松井田宿
宿内往還は全長6丁13間(700メートル)西側、京都口上木戸から江戸口の下木戸までの間とされる。通りの巾は宿はずれ3間半、宿内6間半(12メートル)。上町、仲町、下町には、往還をはさんで両側に巾3尺(1メートル)、深さ3尺程の堀があった。家数は通り149軒、横町・裏町101軒(嘉永5年)あった。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋大5軒、中14軒、小6軒、計25軒あったとされる。(「松井田宿まち歩き」(松井田商店連盟)より)



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補陀寺の前で左の道に入る。線路にぶつかり線路際の道とまっすぐと続く道。まっすぐの道を進むと、道端に小さな緑の「中山道」の標識があった。これに従ったほうがよいものか立ち止まっていると、近くで家を建てていた大工さんが「そこまがるんだよ。」教えてくれる。何を聞いたのでもないのだが、リュックしょって地図持って歩いていると、いかにも「中山道」歩いている人に見えるのだろう。他にも歩いている人がいることも察せられる。「本当にここ?」というような河原の道を通る。ようやく道らしい道に出てほっとしていると、左の竹やぶがざわざわっと。サル!

 

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車の通る道をサルにびっくりしながら、歩いていると、左側に下っていく道の端に道祖神が。本来の道は、サルたちの住処になっているところだったらしい。
あとで、資料館の方に聞いて分かったのだが、河原を通る道は増水で流されて崩れてしまい、通れなかったので、線路際の道を茶屋本陣まで歩くようになっていたそうだ。緑の「中山道」の標識のことはその方も知らなかった。多分、できるだけ本来の中山道を歩きたいという人が多いので立てたのだろうと話していた。
この先もこの標識が点々とあった。



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五料村の茶屋本陣の名主屋敷。五料村は、碓氷関所付要害村の一つで、他の村の潜入者がないように監視する役目を果たしていた。茶屋は、お東とお西があり、一年交代で名主を務めていた。茶屋本陣となる二つの建物は、大名が籠からそのまま降りる部屋、休憩する上の間と家のものが生活する部屋があり、よく似ている。お西の二階が資料館になっていて見学ができる。名主の家ならではの資料がたくさん残っていた。建物は、火災にあったが、大名の休憩所としての役割を果たすために翌日から普請が始まったそうだ。地元の方がくわしく説明してくれた。大掃除の最中だったのに。

 

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夜泣き地蔵。「昔、馬方が荷物の平均を取るために落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなって、首を道端に捨てたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と泣き声を発したために、深谷の人が届けて銅の上に戻したという。(「中山道を歩く」(山と渓谷社)より)
イメージ 6双体道祖神。男女二体の道祖神。信州に多い。
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踏ん張り石。向こうの山に矢を射たとき、踏ん張った後の足のあとが残ったという石。
向こうの山には、二つの穴が空いている。












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横川の駅とおぎのやのすぐ先に碓氷関所跡がある。門柱二本と、要所に金具を用いた門扉は当時使用されたもので、ケヤキの堅固なもの。屋根材の六点と台石も当時のもので、昭和34年に復元された。復元門のある場所は、番所跡にあたり、往時の東門であるが、西門の向きになっている。西門は廃関当時どう処分されたか不明。(「碓氷関所跡」(松井田教育委員会)より)




坂本宿
坂本宿には、昔の屋号を掲げる家がたくさん見られる。東側(江戸口)・西側(京口)ともに木戸が設けられていた。坂本宿内はおよそ600メートル。街道の中央には堀が流れ、17のかけ橋があった。戸数およそ162軒のうち、40軒ほど旅籠であったと記録が残る。(「旧道日和」(安中市産業部商工観光課)より)

 

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碓氷峠の旧道に入ると、初め急登が続いた。距離600メートルで、標高差200メートルほどを登る。きつかった(><)
登りきったところにある覗。坂本宿が一望できた。
道の途中には、茶屋の跡や、馬頭観音、大名も休んだというあずまや跡など、峠ならではの遺跡が多く残っており、当時の旅人気分になれる道だった。
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高低差600メートルを登る峠道は、平坦な道もときおりあるが、大半が坂道。中には、とても、急な坂もあった。例えば、「座等ころがし」赤土で湿りがちなため、すべりやすく、岩や小石がごろごろしている。「山中坂」急坂で、腹ごしらえをしてから登ったことから「まし喰らい坂」と呼ばれた。このあたりには、明治初め頃まで13軒程の茶屋があり、往来の人でにぎわっていたという。
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おまけに、この時期は雪が。。。。。
凍っているところもあり慎重に歩いた。
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2時間歩いてようやく着いた熊野神社。
群馬県と長野県の県境だ。2県をまたいで記念撮影!
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熊野神社からは、車道を歩いて旧軽井沢へ向かった。
あの緑の標識を久しぶりに見て、車道ではない旧道もあるようだったが、ここまでの雪道を考えると、大変なことになりそうだったので。
旧軽井沢へは、何度も来ていたが、そこへ山から降りてくるというのが、とても新鮮だった。


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