輪廻の沼 3

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明日への布石

2008年12月07日 22時21分26秒 | Weblog

列島各地、冷え込みが厳しくなっているかと思いますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?いよいよ明日、母国へ生還帰還できそうです。

 タイトルからいって“明日への布石”って『なんだ?』と思われるかもしれませんが、今日という日は明日のためにある。人間において意識すべきは1年後や2年後、3年後の長期的な視点も重要ではありますが、明日を意識することがこの事の原点になるのではないかというお話です。

 過去に対して『しがらみ』や『挫折』を思い返しても、なかなか良いようにはなりません。確かに過去の思い出は大事だと思います。年を取るとお爺さんやお婆さんは若い頃の思い出や、子育ての時の苦労や喜びを垣間見て余生を過ごそうとし、それが明日への活力になっていたりします。しかし、若い頃で過去を意識してしまうと多くが『挫折』『失敗』『後悔談』に尽きてしまうのではないでしょうか。前を見るなら明日何をすべきか?これを意識するように今日を使えと会社ではよく言っています。確かに会社では、同じ意見や同じ考えの人間がいない事も事実です。仕事は常に利益を生み出さねばならない中で、過去や自分の役職等にしがみつくのは人間として自分を不要だと定義してしまっていると思います。

 『白い巨塔』で財前教授は、『財前先生、これは悪性の腫瘍ではないでしょうか?』という部下の問いに対して、『君は助教授であり、私は教授なのだよ』という問答で一刀してしまいましたが。会話になってないですよね、部下の『悪性の腫瘍ではないでしょうか?』の質問に対し、『私は教授だ』と答える。ただ、これが日本社会のヒエラルキー構造、縦割り医療、縦割り行政、縦割り社会たる所以でもあるのでしょうか。ただこういう年の取り方はしたくないものです。少なくとも人間として会話を成立させるならば、『これは悪性の腫瘍ではないでしょうか?』→『確かに根はあるがまだ問題はない。明日からそれを摘出する準備をするが、それは君の仕事ではなく私の仕事だ』などの答え方もあると思います。結局、財前吾郎はその癌を摘出せず、患者を見殺しにし、自らも癌によって死んでしまいました。明日のために今日を使えというのは、一種のノルマチックな感じでもありますが、要は自己管理を徹底させるための必要事項です。よく社会人1年目では学生空気のままで中々、場の空気が読めずに結局、孤立化してしまう人がいます。これでは働いても楽しくないだろうと思い、自分自身も会社で何をしてやろうなんて意識はないが、とにかく楽しく仕事をしたいそのための競争という意識付けをもっています。明日を意識するように明日にこそ価値があるというモチベーションを持たせようとしてきました。

 これで効果があったのが、部下が積極的に英会話を習いにいったり、休みの日にジム等を通ってメタボ解消したりと本当に意味がある休日の過ごし方をするようになったことです。でも、そうすることで自分にも自信が付くし、何よりもそれが仕事の利潤に跳ね返った点です。格闘ゲームなどの遊戯でそれを実戦するのは難しいかもしれませんが、ゲーマーの皆様も何か明日のために今日は何をするべきかを実践してみると人生がもっと豊かになるかもしれません。考えるよりも先ずはお試しあれ。


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