スマイリー渡辺 ぶろぐ(すまいる a )

私の音楽活動と趣味生活を皆さんと分け合って楽しみたい!(出来事も!!!)

「千の風になって」観ました

2006年12月17日 21時39分07秒 | Weblog
 「千の風になって」の自主上映会で歌わせて頂きました。
 とある知的障害学園の文化交流会の一環としてです。こういった学園で歌うのは初めての経験でして、どういった反応がお客さんから来るのかも全くの未知でしたので、期待よりも不安の方が大きかったですね。学園の入園者さんだけでなく、一般のお客さんも一緒に観ていましたので、今までに味わった事の無い緊張感で逃げ出したい心境になっていました。
 
 映画上映前にオリジナル曲3曲を歌わせて頂きました。ステージの袖で、もう心臓がバクバクになっていたのをハッキリ憶えてます。
 いよいよ学園祭が始まりました。まずは、園長さんのお言葉がありまして、その後の登場でした。自分でも舞い上がっているのが分かりました。「なんで、こんな事引き受けたんだろう。帰りたーい!」今更、後悔です。でもヤルッキャ無い!
 1曲目、2曲目、とマズマズの出来。そして、今回のメインの曲「再会(空の上の両親へ)」に入りました。この曲は私が父と母に思いを込めて書いた曲でして、たまたま今回の上映会の関係者に聞いてもらったところ、「この映画にピッタリの曲ですね。」と言って頂いたのがきっかけでした。
 この曲をどういった状況下で書いたのかを、その当時を思い出しながら話していきました。そしたら、前の方に座っていたおじいちゃんおばあちゃん達が、私の話にウナズイてくれてたんです。自分の子供や孫でも観てるようになんです。その仕草に、私はノックアウトされました。もう、思いが入りすぎて涙は出るし、声が上ずって話せなくなるし、もう最悪でした。そのまま曲に入ったもんだから、歌もマトモに歌えなくなるし、もう、最低、最悪でした。お客さん、関係者の方々、大変ごめんなさい。
 私は、ドップリ落ち込んでステージを降りたのです。そしたら、司会進行の方から「もう一度ステージの方へどうぞ!」
と、言われたのですが私はもう落ちる所まで落ちていたので、その言葉は私の耳に入ってきませんでした。そうしているうちに施設の方が私を呼びに来てくれて慌ててステージに戻りました。そしたら、皆さんから大きな拍手で迎えていただけたのです。もう感謝してもしきれないくらい感謝です。そこで、胸のつかえが取れたような思いになれました。本当にありがとうございました。
 その後、いよいよ映画の始まりです。私はその余韻を残したまま皆さんと一緒に映画鑑賞に入りました。すべての内容が自分が経験してきたような事ばかりで、もうドップリ入り込んでいました。自分もこの映画の中に入ったような錯覚さえ感じていました。
 始め、小児がんに冒された息子を持った家族の話から始まり、次は、いじめを受けた少女が、家庭内暴力に走ってしまった話、そして最後は果樹農家の老夫婦の話で、あの渋い演技で有名な「綿引勝彦」さんの演技がすごかったです。最後の末期がんで死んで行くシーンがすごかったです。あんな格好悪い綿引さんを見るのは初めてです。格好悪いのに、格好良い、そんな表現が一番かもしれません。もう感動です。そして、私の父と重なりました。父が死ぬ1週間前、話す事出来ないのでいつも手やホワイトボードでの会話ですが、そんな中私の手に書いたのが「死にたくない!」でした。その事を思い出してしまいました。本当に素晴らしい映画でした。
 最後に、施設のみなさま、最初から最後までご迷惑の懸けっぱなしで申し訳御座いません。そしてご親切にして頂きまして本当にありがとうございました。上映会関係者の方々本当にありがとうございました。
 

再会(空の上の両親へ)第11話

2006年12月05日 19時25分48秒 | Weblog
 父と母は何を言っても信頼し合ってたのかもしれませんね。仕事に行く時もいつも父のバイクで仲良く二人乗りで仕事場に行っていました。(当時はそんなにウルサくなかった)
 午前8:00~午後5:00まで、公園管理の仕事をやり、帰ると父は野良仕事、母は炊事洗濯時々野良でした。休む事を知らないような人たちでした。隣近所からは、「いつも笑い声の絶えない家庭だよね!」と、よく言われてました。
 母はドリフが大好きで、そして欽ちゃんファミリーが大好きで、バカ殿が大好きでした。父はと言うと、主に理科系の番組が好きでした。動物ものや科学番組。探検もの、宇宙もの、そして花ものでしたね!
 そういえば、盆栽は大好物みたいでしたね。シャクナゲやサツキなどなど。あと、近所からはキノコ博士と言われていました。日々研究で、食えるキノコは当然ですが、毒だと言われてるキノコも採取しては、図鑑と睨めっこしてました。
 二人の共通の趣味はそういえば山でしたね。春は山菜、秋はキノコと。山菜やキノコは漬けたりして、自分家で食べるもの以外は町に売りに行ってましたね。まあ、「貧乏暇無し」って、この事でしょうね。
 そんなこんなで私達を育ててくれました。

再会(空の上の両親へ)第10話

2006年12月02日 02時29分43秒 | Weblog
 兄の手術は成功でした。左の肺の半分を摘出したとの事。その後は、抗がん剤を服用し徐々に抗がん剤の量を減らすといった治療をしていました。1年後、再発の心配は無いだろうとの事で、1ヶ月に一度の通院のみとなったのです。
 ”捨てる神在れば、拾う神が在り。”だったかな?そんな言葉が頭を過りました。お前達にはまだやる事があるから、終わりにしないよ。と、神様が思ったのだろうか!
 そんなこんなで、またいつもの生活が戻って参りました。
 母はいつもと変わらず、寝たきりで、自分の気持ちは目でする事しか出来ずにいます。正直、こんな母は見たくなかったし、見る事になるとも全く考えもしなかったです。母は、いつも笑ってばかりいた人でしたし、本当に明るい人でした。その分私達には口うるさかったですが。私の友達(今でも親しい仲です。)は、高校の頃、母を亡くしてましたので、いつも家に遊びにくると家の母が、その友達を叱ってたものでした。本当の息子のような付き合いをしていた事を今でも思い出します。
 そんな母とは対照的だったのが、家の父でした。本当にブッキラボウで、無口で、農作業していました。だけど、一生懸命明るくしようとしている様子は、伺えましたね。不器用な人でした。父は。そんな父と母だからうまく行ってたのかも。
 こんな毎日でしたから、まさかこのような事になるとは全く思ってもいませんでした。仕事も定年になり、これから残りの人生を楽しむはずなのに。やっと自分の時間が持てるようになったのに。その楽しむはずだった残りの人生のほとんどを二人は、病院と特老で過ごしたのです。その悔しさは、二人でないと分からないだろうと思います。私達にも分かりません。ただ、その思いが伝わっては来ました。正直、二人の病気は良くなる事は無かったので励ましの言葉も浮かびませんでした。
 同じ病院や施設の家族が帰り際に「早く良くなって一緒に暮らせるように、頑張って病気を治してね。」
などと、言いやがるんです。その言葉は、当の本人には、どう聞こえるのか考えた事が無いんだろうか。そう思ってしまいました。無責任な励ましの言葉なんじゃないか、とも思いました。私だけでしょうか?本人達がその病院や施設を出る時は、亡くなった時だけとしか、私には思えません。
 こんな事は書くつもりはありませんでした。しかし、その言葉は、本人達にとっては、一番残酷な言葉なのではないのか。そう思えたのです。