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厳冬のサハリン北部 オハを探訪

2020-10-23 | サハリン話題

 厳冬のオハ

 この地は、サハリン最北端の町である。 1980年代より原油・天然ガスの生産地としてロシアはもとより海外でもその知名度が浸透していた。
旧日本政府も当地に戦前領事館を設けて原油の輸入に一役買っていた。  日本人も
三千人余りが滞在していた記録がある。  終戦時には樺太・北千島の日本軍捕虜の収容所もあった。 収容所はソ連政府の一時的施設として使われ後に捕虜らは、シベリアの施設に分散して労役についていた。
しかし、そんな日本との歴史があるがオハ市民は至って友好的である。
日本人と聞いて「自動車が欲しい」「日本語が勉強したい」「日本旅行がしてみたい」等々、早川が日本人と聞いて色々と話しかけてくる。  大陸的と言うかサハリンの首都ユジノサハリンスク市とは、市民感情が違うのである。  ユジノは朝鮮系市民が多く民族的な気遣いが有るのかも知れないと早川は思うが。 大陸的と言えばオハ市はユジノサハリンスクのテレビが視聴不可なのである。 全てがモスクワ・ハバロフスク・ウラジオストックなどの衛星放送である。  サハリン情報はラジオだけである。  しかし、近年ネットの普及で情報伝達も多岐にわたっているようである。  

 サハリン最北のオハ市民の買い物は、ロシア極東のハバロフスク市へ飛行機で訪れるのである。  毎日定期便が飛んでいて首都ユジノと同程度の飛行時間と運賃である。
原油の生産・天然ガスの基地オハは、市民に大きな貢献度を与えていた。  それは、
天然ガスの無料供給である。  各住宅にはガスが提供され年中その貢献に甘んじて
いるのである。  これは、近郊のネクラソフカ村などにも及びガス生産地の地の利を
大いに活かしたに市民生活である。 ネクラソフカ村は北方民族のニブフ人の村として
サハリンでも最大の村である。 この村には北海道では絶滅した樺太犬の生息地とし
て知られている。 この地域では外気温がマイナス30度「真冬は平均気温」でも室内は半そで姿で過ごせるのである。 部屋は暑すぎるくらいで冷たいビールがとても美味く感じるのである。
 人口25000人余りのオハ市は原油・天然ガス生産以外にこれといった産業がない。
市内には、無数の原油生産の井戸が立ち並んでいる。 ロバが首を下げたり上げたり
している姿に似ている光景が印象深い。 街の歴史は1870年代から始まる。
しかし、サハリン島でも裕福層が多いのも現実である。  知り合いのロシア人の運転手は、プール付の一軒家に住んでいる。 地元で生まれて育ったカルペンコは42歳、妻のアーリャ三五歳そして娘のマリア五歳の三人暮らしである。 両親は地元で原油関連の仕事についていたが、現在は年金暮らしで黒海のソチで保養しているとの事である。カルペンコは、志願兵としてハバロフスク市郊外の陸軍基地に長く滞在していた。 
ソ連崩壊と同時にオハ市に帰り軍払い下げの六輪駆動トラックを入手して運送業を始めた。
結婚当初から妻のアーリャは、地元オハの小学校の教師である。 カルペンコの成功は
努力もあるが、運送料の値段の設定が大陸的なのである。ロシア人は意外に算数は苦手の人が多いように私は感じる。 特に男が目立つ。運送料も均一で100ドル・500ドル・1000ドル・そして1000ドル以上は、1500ドル・2000ドル・2500ドル・3000ドルという風に小銭の登板がないのである。 
ロシア国内での貨幣はルーブルであるが彼は敢えてus$ドルの表示・提示でありドル支払いが基本である。 これはアメリカドルが世界通貨である事からドル支払いを原則的に決めたそうである。  彼は地元民やロシア人には、ドル計算でのルーブル支払いを許していた。 「支払い当日の国際レートに従って支払う」面白い男である。 
軍隊で勉強してきたのか・・・。  これが大変受けた商法である。 原油・天然ガスの大半の企業は国際取引なり貿易をしている背景があるので、なんらドル建て支払いは何にも苦ではないのである。  崩壊後のロシアは経済的にも国民生活も苦境に立たされていた。  オハ市民も一部では生活苦でもあった。  国内はドル・円の価格が上がり交換レート取引で、両替商は大きな利益を得ていた。
 彼の商法は、隣の町まで一個の荷物なり、一人の人間なり、一頭の馬なり、輸送する料金は同一である。 料金が100ドル以下は無いのが彼の商売の基本なのである。面倒な馬など牛・犬など家畜類は一頭につき最低100ドル。 「途中で水なり餌さを与えたり運動させたり」の手間も計算に入っている。 「生き物は道中面倒を見て確実に生かして届けます」、少し料金が加算されますよ。 と言う原理なのである。  
これは距離にもよるが掛る時間が彼流の式がある様だ。隣町まで距離にして六キロメートルほどである、運賃は最低価格の100ドル「日本円で1万円」
になる。高いか、安いか、の判断は個々によって相違するのが世界の不思議である。
日本流に当てはめると宅急便の新鮮な生き物配達とでも表現するのか・・・。

 同じ様な計算をしていた知り合いのロシアの弁護士がいた。
彼の計算も一件1000US$と相場が決まっていた。 この価格より以下も以上もないのである。 それは民事でも刑事事件でも一件、日本円で10万円余りである。 
大変に計算しやすい方式である。訴訟事件も公判中であっても結審までの料金である。  高いか、安いか、の判断で迷う事を日本人は持つが、その点いたって大雑把と言うか、分かりやすいシステムでもあるようだ。 この弁護士もサハリンでは売れいて特に外
国企業からの発注が、一年先まで埋まっていると自慢していた。  

 さてオハの運転手の話を続けよう。  カルペンコは六輪駆動トラックを六台。雪上車
を二台。 普通自家用車「日本製二台・ドイツ製一台」を三台所有している。
六輪駆動車と雪上車はロシア陸軍の払い下げである。  この車両は燃費が極力少な
くて済む経済車である。  雪上車は何に使うのか聞いてみた。 「オハ近郊は大小の湖がたくさんある。そして海にも近い。 冬に氷下の魚を獲る市民も多く居る。そこで市民用に雪上車を提供している。」との説明である。 市内には事務所も構えてスタッフも五人雇っていた。 冬は結氷した湖・沼・海岸での氷上での釣りである。 
サハリンの男たちは、冬になるとこの氷下の釣りが大好きである。 主にコマイが獲れるが、中には蟹なども釣りあがる。 コマイは二・三日乾燥させると酒の肴にぴったりのつまみになる。  このサービスをカルペンコは考え出して利益を得ていると言う。
 六輪駆動車をチャーターして八百五十キロメーター近く走行したが、途中一度も給油しなかった。 私は驚いて彼に聞いた「何でこんなに走れるのか?」カルペンコは「千キロメーターまでは無給油で走れる。ロシアで一番孝行者はこの車だよ。」と返答した。何を燃料にしているのかと問うと「軽油」との回答である。
ロシアの底力を感じた。  国内が不景気と騒いでも、こんな経済車があるとは驚きである。色々と話を聞くとシベリア大陸を走る長距離運行には、千キロ単位の給油システムが要求される。 当然この様なトラックが誕生しても不思議ではない。  日本の狭い領土と同感覚ではついていけない。 過去にこのトラックと雪上車様式はソ連軍の機密事項でもあったと通訳が言った。   「燃費」これが車両を維持する大きな課題である。 戦争で広い領土を駆け巡る戦車や武装車が絶えずガス欠では戦争にもならない背景もある。

 一度、日本の学者「理系」からロシアに渡航した折に現金「違法であるが時効であるから公開する事にする」を持ち込み依頼の経験がある。エリチェン大統領時代、銀行が倒産してロシア国内が経済混乱の時期である。  持ち込むのは日本円で350万円程の大金であつた。 海外旅行に使うベルト式の札入れに百万円単位の紙幣がまとわり付く。 当初入国時に無申告で通過しようと機内で考えていたが、税関職員の顔を見てそれは止めた。 税関で正式に申告した。腰からベルトを、外し札束を取り出す。 税関で並んでいる旅行者も興味津々で眺めている。 この金額は当時のロシアでの価値観を当てはめると三倍程度になる計算である。 税関職員の給料が月5000円から7000円の時代であり、その給料遅配気味であった。 
担当者は「何に使うのか?」と聞くから「研究費の金だ」と言えば色々と複雑になるので「取材経費」と返答した。  係官は、理解を示し大金の金額を記入した用紙を渡してくれた。「帰国時に使用した金額を記入して用紙を返却する事」こんな立派な用紙は何度もロシアを訪れているが初めての経験であつた。 要するにロシア国内に外貨が入国!した記念書とでも言うのか。無事通過した経験がある。 
日本国内では「ロシアへの大金持込は無理で没収される危険性があると」噂されていた。 旅行代理店でも代金に関しては「判りません」と言うありさま。  
相手の研究者に大金を渡し帰国時の書類の件を説明した。「明日正式な書類を出すので待って欲しい」との返答。  通訳に不安な気持ちを説明したが、同じロシア人同士「安心して下さい。彼は信頼できます。明日までまちましょう」 二人に裏切られたら一生シベリア送りか、脳裏を駆け巡る。次の日、正式な役所からの入金証明の書類がホテルに届いた。
通訳のキム・サーシャの説明では、ロシア・アカデミー極東支部発行の領収書である。 
またまた不安になった入国時に「取材経費」と口頭申告していたのが思い出された。  
その件を通訳のキム・サーシャに打ち明けると「大丈夫。帰国時に私が説明してあげるから。輝「テル」はロシア国のために働いた貴重な日本人なのだから」といってくれる。
この時の大金の使途が後々に判明する。  日本とロシアの共同研究経費を、銀行を通さずに送金されたのである。  その共同研究が車両燃料の低減を図るための画期的な開発であった。  日本側も国立大学が絡んでの研究開発にはかなり力が入っていたようである。 当然、両国の特許以上の価値観が生じる研究であった。
それは、液体燃料を固体燃料に変える特殊な研究であった。  固体のガソリンと考えれば納得するであろう。  移動も便利で持ち運びも簡単である。 しかし、危険物には相違ないので法的な問題は残るが画期的な発明である。 軍隊では可能であり基地内での保管も地下に埋めるなどの方法で外部からの隠蔽策も講じられる。
その開発は、その後前進したのか後退したのか不明である。 ロシアの研究者からは
感謝されいまだに交際が続いている。  しかし、残念。 日本の依頼をした学者からは何の御礼も挨拶もないのである。 「国際現金運び屋」は、それを最後に全ての依頼を断った。 ロシアの銀行事情がその様な結果を生んでいだ。

 さて、カルペンコに話を戻そう。
 オハの冬は最高気温がマイナス三十度が平均である。
真冬には、耳掛け付毛皮の帽子を被らないと凍傷になるのは、間違いない。 一度
暖かいというので耳を出して帽子だけで買い物にいった。  ホテルに帰ると耳が痛い
同行のキム・サーシャに聞くと「耳が黒くなっていますよ」と言う、凍傷の初期状態である。あと数時間このまま買い物を続けていたら「耳なし法一になっていた」とキム・サーシャはひやかした。  それだけに冷たいと体感温度で感じがないのに耳は低温状態になっていた事になる。  恐ろしい体験をした。  天気が良くても絶対に帽子と耳を保温するスタイルを厳冬期には維持する事にした。  手袋も当然、そして顔もマスクなどで保護する事を推奨します。 しかし、気温が-30度になると空気がとしも乾いていると言うのか、「すっきり」している。  冷たい空気が肺の中から全身に廻る速度がとても早く感じるのだ。 「何だこれわ・・・」の世界である。   
各家庭では室内の暖房が効いて暖かい。  ガスのおかげである。 真冬に満足に
暖房が効いていると人間は殆ど不平・不満は持たないものである。  納税も大切だが、これほど、完璧なオハ市民の生活は行政機関との関係が友好に保たれている証でもある。  

夏の一時に、カルペンコに犬を五頭運んでもらった。 一頭当たり500US$である。 
日本円で合計二十五万円程である。 活きた犬の輸送には神経を使うとカルペンコ
は語る。水・餌そして運動等 人間は色々と注文を言うが動物は無言である。  
そして、飼い主が同行していない道中は、特に気を使う。  犬・馬・牛・特に多いの
が豚である。輸送もロシアでは日本と違い壮大なシアでは日本と違い壮大な距離を
余儀なくされる。最低でも移動距離五百キロメートルなどは平均なのである。  
犬の輸送も一頭五百ドルは格安な部類である。  
この時は、樺太犬をネクラソフカ村からサハリン最南端の港 コルサコフまでの八百五十キロメートルの距離である。  さらにコルサコフより北海道への輸送である。
同行の日本人は二人で稚内市の樺太犬保存会のメンバーである。  
ネクラソフカ村はサハリン州駄々一つの樺太犬の生息地である。
最北の村から最南端の町まで五頭の犬と共に輸送を担うのである。六輪駆動車の出番である。  
五頭の犬は生後半年であり成長も早く日本から持参した犬用ゲージは、少々狭い感じであるが、何とか犬は静かに収まっていた。  運送時間は三十二時間。  
彼にとってもこの仕事は、ノンストップになりそうな気配である。明後日、夕方のコルサルコフ港発の苫小牧行きの木材運搬船に乗せなければならないのである。
 この運搬船は年に数回しか往来しない船である。 チャンスは一度であった。 
それも、早川は今回の輸送計画に北海道でも動物移送に関して各関係機関と調整していた。  
北海道の動物検疫所は、二箇所しかなく新千歳空港と苫小牧港が指定地域である。 
サハリンに一番近い稚内市この距離四十キロメートル余り犬が泳いでも渡れる。
しかし、法律は、曲れないのである。 五頭「♂二頭♀三頭」の犬たちはサハリンを
八五十キロメートル縦断して北海道最北端を船で迂回して二泊三日の船旅を得て苫小牧港に入国かる。検疫の為、北海道の土を踏む事なく早来の検疫所に入った。
ここで二週間の経過措置をえて、晴れて稚内の住民になったのである。  
稚内港そして小樽港に入国が可能になる様に願い、早川は有力者、動物専門家、等々に対して陳情を行った。  動物に対して「犬の肉体的・精神的な負担軽減措置として」特別処置を求めて活動したが、最終的には不発に終わっていた。
監督官庁の農林水産省 動物検疫担当も入国地の変更は認めないと正式に回答して
きた。  
然るに、北海道への船舶寄航は苫小牧港しかないのである。 樺太犬輸送作戦は、当時のコルサコフ市長の支援も欠かせない。 市長は大の犬好きのあり地元産・樺太犬の北海道移籍に賛同してくれた経緯があった。 犬が築く友好の架け橋なの
か。 そんな事情で輸送32時間の限定輸送が始まった。
 カルペンコは、ネクラソフカ村を出発すると道路沿いに広がる森で木々を鉈で切った。  葉も付いている枝を車内の犬たちの寝場所に敷いた。  室内には新鮮な森の香りが漂ってきた。  早川も始めて経験した。 木々の香りが新鮮な空気と何ともいえない木の匂いに気分が落ち着いた。  犬たちも当然このオゾンの匂いで落ち着いたと考える。それは、彼が人間「私たち」にではなく犬に対しての思いやりなのだと私は考えた。五頭の犬たちは兄弟であり、これから見知らぬ土地へ向かう不安をこの森の香りで皆無に近い状況になったと思えた。  
この自然の匂いを嗅ぐ習性はロシア人にも多く見られる。 
途中で国道から逸れて湧き水が出ている場所に止まる。 国道の周辺には高山植物が咲き乱れて旅人の心を安らかに導く。  犬たちは下車させられ十分程の散歩と、湧き水を与えられる。 カルペンコが犬の面倒を見ている。  飼い主のようにふるまう。 樺太犬もそれに従うのだ。  カラペンコも犬も初対面である。 犬がこれほど彼に
従順なのはなぜなのか。 不思議な関係でもある。彼は、犬は飼っていないと聞いていた。 途中でオハ市内にある、市の獣医師からロシア・英語の犬の証明書を貰った。
獣医師が、証明書に書いた犬種は、「東シベリア・ライカ」と明記されていた。
樺太犬と呼んでいる我々は、ロシア犬種分類ではこの名前になるのかと思った。
生後参ヶ月内の犬は母親の影響で予防接種が効かないのである。 そこで犬たちの移動も三ヶ月経過してからと決めていた。  しかし、樺太犬の成長は早くこの時点で中型犬並みの体格になっていた。  稚内から運んできた犬ゲージも彼らにとっては小さく狭い道中を余儀なくされていた。 「文句も言わず。お利口さんです」

 八百五十キロメートルをノンストップ。 彼は途中で15分間ほど休憩した。六輪駆動車の大型トラックは給油もなく南下し続けた。  
パリ・ダカラリーに参戦している勇者のごとく。一路南下、雨道の中をひた走り走り続けた。  朝早く途中の町で朝食を取るために休んだ。 
それがエンジンを停止させたのが始めて最後でもあった。 
犬たちは、車内から外に出されて散歩と食事にありつけた。  
既にネクラソフカ村を出てから18時間が経過していた。  ホテルでも民宿でもない食堂はカルペンコが、常連にしている店であるようだ。  事前に連絡していたのか食事は用意されていた。  犬の世話が終わると全員で朝食を味わった。 再び旅は始まった。
日本人が三名とロシア人が三名そして乗客の樺太犬が五頭の旅。  
日本人は早川輝彦。稚内樺太犬保存会会長の木村氏そして副会長の柴田氏。
ロシア側は、通訳はキム・サーシャ。ビデオ撮影はサハリンテレビのカメラマン・ワロージャ。ワロージャとキム・サーシャは運転席に陣取り撮影をしたり、カルペンコの犬の世話を手伝たりした。
北緯50度を越した寒村でトラックは停止した。 既に夜半に入りつつあった。 
何事かと運転席を覗くと通訳のキム・サーシャが「女が乗せてくれと頼んでいるので
乗せる」と言う。  後部ドアを開けると真下に中年の女性がすでにステップに足を掛けて乗り込む体勢で手を差し伸べている。 早川が彼女の手を取り乗車を助ける。
長身のやせぎすの三十代後半の女性で少し酔っているようだ。  車内はオゾンの
匂いと犬の匂いそして酒の匂いが混ざり最悪の状況である。 
運転席の小窓からキム・サーシャが「隣町まで乗せて行くからよろしく」と言った。  
その女性は、犬がいるのと日本人がいる事も余り気にせず。 水をくれと手招きる。  
私が自前のペットボトルを与えるとごくごく音を立てて飲み干した。  
「スパシーバ=ありがとう」と一言。  早川の腕に頭を載せる寝息を立てて寝ていた。 
 早川より年下に思えたが、ロシア女性の度胸の良いのには驚いた。 
毛皮のブーツにセーターの上にはスキーウエァを羽織っていた。 
冬場の吹雪でないのが幸いしていた。
保存会のメンバーも唖然としている。 今まで寝ていた二人は所存無く犬たちを見て
いる。 略・一時間程走行してトラックは草原で停車した。 隣町まで車で一時間、北海道も広いが、こんなに離れてはいないのである。   
女性は寝ているが、運転者のカルペンコが小窓を開けて「希望の村に着いた。安心して降りなさい」とやさしい声で語りかけた。 私も彼女の頭をゆすって「着いたよ」と日本語で言った。  「私、寝てしまったのね。ありがとう。日本の人と犬たちへ さようなら。ありがとう。良い旅を・・・ダスビダァーニァ」と言って下車した。 
車内の全員が「ダスビダァーニァ」と答えた。 早川の腕は彼女の頭の重さでしびれていた。 犬の臭いと酒の臭いで社内の空気は汚染度が増したようにも思えた。 
全員が、のどが渇いたので水がほしいと言う。早川は、彼女が飲んだペットボトルを差し出したが、誰も手を出さなかった。この様な事は何時もあるのかと、カルペンコに聞いた「時々ある。彼女は知人の家で飲みすぎて帰りが遅れた。時々ヒッチハイクをしているみたいだ。」と答えた。
サハリンのど真ん中でそして女性、日本では到底考えられない。
「考えられない。昔はこんな光景もあったと思うが・・・今ではとても危険でね」と北国育ちの樺太保存会メンバーは語った。

 五頭の樺太犬は、木材運搬船で青いい海峡を渡った。 
稚内では保存会の有志五名が彼ら、彼女らを引き取り保存に取り組んでいる。
 しかし、驚いたのは犬の輸送を担当したカルペンコである。走行距離八百五十キロメートルをたった十五分の休憩で二三時間四五分を運転し続けた行為である。 
ギネス者であり、オリンピックでも参加して耐久レースを繰り広げたら金メダル間違いなしである。 
ロシアは広いいのだ。 この樺太犬の移住計画と記録はテレビドキュメンタリー番組として全国で放映された。

サハリンマン

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