城犬のおいど

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常陸国 多賀谷城

2024-10-17 07:01:27 | 城館
常陸国 多賀谷城 <タガヤジョウ>
別称下妻城
城郭種別城郭
縄張り平城
築城者多賀谷氏家
築城年1461
廃城年1610
主な城主多賀谷氏、徳川氏
指定史跡なし/不明
住所茨城県下妻市本城町
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物なし
DID・航空管制対象・対象外

概要
多賀谷氏は、初代氏家が現在の多賀谷城跡公園の一部に本丸を構え、隣国豪族を攻めて、その勢力下に置くほか、小田原北条氏政勢の再来を撃退するなど、
7代にわたり147年間下妻城主として常陸地方に栄えていた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起き、7代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ、徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。
この戦いで家康に憎まれ、石田三成にくみした理由で、慶長6年2月、
城主追放のとき奥方はじめ奥女中達は行く末を案じて、ある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。
領民はこれを哀れみ遺体を集め、三の丸の一角に合葬した。
それが今に伝えられる美女塚の伝説である。
現在本丸跡にある多賀谷氏遺跡碑は旧主をしたう家臣子孫が明治23年12月に建立したものである。
※現地看板より

攻城記録
駐車場


多賀谷城跡公園

平和塔


多賀谷城本丸跡

市指定の文化財。
下妻城の築城については、『多賀谷家譜』氏家の項に「賜常州河内郡関館而、相攸於下妻郷築城、構東西両館之要害、以東館為本丸、創功於康正元年(1455)、寛正2年(1461)落成牟」とあり、
常州河内郡を賜った多賀谷氏は、はじめ関館(現、筑西市関館)に入りその後、下妻に城を築いたことが記されている。
また、同じく『多賀谷家譜』重経の項に「此年(天正7年(1579))修補西城、広湟深池、上櫓高壁、構要害也」とあり、城郭の拡張を行った記載が見える。
このように城郭として堅固であった下妻城の遺構は、昭和30年代まで曲輪、堀、土塁などが保存状態よく残存していたが、昭和40年代下妻駅東都市計画事業の一貫として本丸周囲を除き、
その他の台地を約2メートル削って、その土で低地を埋め、現在の姿となった。
現在、本丸跡は多賀谷城跡公園となっている。
※現地看板より





多賀谷氏遺跡碑




2024/10最終訪問

周辺地図

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