城犬のおいど

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武蔵国 滝山城

2024-10-10 15:03:34 | 城館
武蔵国 滝山城 <タキヤマジョウ>
別称武蔵滝山城・武州瀧山城・瀧山城・横山城・竹山城
城郭種別城郭
縄張り連郭式山城
築城者大石定重
築城年1521
廃城年1580
主な城主大石氏、北条氏
指定史跡国指定
住所東京都八王子市
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ滝山城跡中の丸広場
八王子市加住市民センター 09:00~21:30
道の駅八王子滝山 08:00~19:00
現存建造物なし
復元建造物木橋

概要
滝山城は、多摩川と秋川の合流点の南側に広がる丘陵にあり、都立滝山自然公園の一部です。標高160mの公園の北側には田園風景や多摩川の経過を臨むことができます。
戦国時代中期に建てられた滝山城は、川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸、二の丸、千畳敷、空堀などの貴重な遺構を見ることができます。滝山城跡は、1951年に国の史跡として指定され、2017年に続日本100名城 123番に選定されました。

攻城記録
国道411号線(滝山街道)にある滝山観光駐車場(無料)
8時から18時まで(11月1日から2月末までは16時まで)
注意:時間を過ぎると出庫出来なくなります。

城址碑と案内板
戦国時代中期に建てられた滝山城は、川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸、二の丸、千畳敷、空堀などの貴重な遺構があります。
滝山城跡は、昭和26年に国の史跡として指定されました。
※現地案内板より


大手道

天野坂
大手口と思われる天野坂から堀底道は、城兵が効果的に攻撃ができるように工夫されている。
小宮曲輪と三の丸の間には枡形虎口(出入口)が設けられていた。
攻めのぼる敵側にとっては大変な脅威にさらされている場所で、侵入するのが難しかったと思われる。
※現地解説版より

三の丸

滝山城の南側を守る台状の構造で、三方を空堀(水を入れない堀)で囲まれています。城があった当時はもっと深かったと考えられますが、
現在でも堀底から三の丸の台上までは15mほどもあり、堅牢な守りであったことが想像できます。
※現地看板より

小宮曲輪

「小宮曲輪」と称されてきているので氏照の家臣の中に西多摩地域出身の家臣(小宮氏)が活躍していたと思われる。
小宮曲輪の内部は土塁(土盛り)でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられる。
小宮曲輪と三の丸との間には枡形虎口(出入口)があったが車道により消滅した。
※現地解説版より

パンフレットが置いてある。

コの字型土橋
堀を掘る際に、一部を土のままに残し通路として使う場所を土橋という。
当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。
敵の直進を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。
※現地解説版より

千畳敷

ここは滝山城跡の中で最も広い平場で「千畳敷」と呼ばれています。
一辺が約60mの正方形に近い形をしており、東側には「二の丸」を守る兵馬が控えたと考えられる「角馬出し」があります。
「二の丸」は、敵兵を入れさせない固い守りとなっていましたが、「千畳敷」は城下の民が年貢を納めたり、陳情に来る役場的な施設があったと考えられます。
※現地看板より



馬出

虎口(出入り口)の前方に設けた空間を馬出という。
この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。
馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。
二の丸の三ケ所の出入口には馬出がそれぞれに設けられている。
※現地解説版より

中の丸南側の櫓門(推定)

中の丸の南側は二方向から攻め寄せられ敵が合流できる場所だった。
この場所には木橋の前面を守る防御設備が必要である。
土塁の残り方から考えて、櫓門があったのではないかと推定される。
※現地解説版より

中の丸
「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。
このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。
附近には河越道の渡河地点である「平の渡し」がある。
この重要な地点を抑えるために滝山城は構築されたと考えられる。
※現地解説版より

スタンプ設置場所


引橋

当時の木橋はもう少し下に架けられていた。
おそらく、中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる。
人工的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。
「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。
※現地解説板より

大堀切に架かる引橋


本丸
滝山城の最奥。
城主が住んだ場所と考えられます。
上下に段になっており、下段は土塁で囲まれ、内壁に丸石を積んだ井戸もあります。
「中の丸」との間には、「大堀切」と呼ばれる空堀と、有事には外すことができる「引橋」、さらに敵を横向きにさせて攻撃する「枡形虎口」があり、非常に堅い守りになっています。
滝山城は大永元年(1521年)に、武蔵野国守護代の大石定重が築城。
その後、関東一円を支配した北条氏康の三男、氏照が大改修したとされますが、本丸は大石時代の姿を残すと言われます。
※現地看板より

城址碑
此の城は関東の名城といわれ天文5年(1536)北條氏康同21年(1552)上杉謙信 永禄12年(1569)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けている 。
大永元年(1521)始めて大石定重之を築き、定久之を受けついで北条氏照の居城となった。
尚この城の城下町は八王子市の発祥地である。
※現地瀧山城本丸址の碑より

本丸井戸


霞神社

金毘羅社



搦手道(搦手口からの侵入路)

本丸北西の枡形虎口(出入口)は滝集落からの侵入路を抑えている。
この侵入路を防御するため、出丸と本丸から挟み打ちできるように工夫している。(二方向から敵を挟んで攻める)
出丸の先端部分には馬出を備え、縦横の堀と共に強力な防御態勢を整えていたと思われる。
※現地解説版より

本丸南側枡形虎口

本丸の主たる出入口は二ヶ所ある。
一ヶ所は中の丸から引き橋を渡って入る虎口。
もう一ヶ所は南側に設けられている。
枡形は敵の直進を防ぐための工夫でもある。
もし敵がこの虎口に侵入すると、体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。
現在でも枡形が大変よく残っている城郭遺構である。
※現地解説版より




二の丸

この城の大きな特徴は、二の丸の防御方法にある。
二の丸へは三方面から侵入できるが、どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。
その中の二ヶ所は方形の平場で「角馬出」と呼ばれている。
寄せ手(敵方)はこの馬出を占拠しなければ、二の丸へは侵入できなかった。
こうした二の丸防御の堅固さから、永禄12年(1569)10月、甲斐武田信玄との滝山合戦において、城主氏照は二の丸櫓門の上で奮戦し、敵を退けたと軍記物に語られるようになった。
軍記物の記述の真偽はともあれ、このとき氏照は自らの書状で古甲州道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に伝えている。
※現地解説版より

土橋

行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)

屏風折り


東馬出



大馬出





行き止まり



家臣屋敷跡
中の丸から空堀を隔て東、城主北条氏照の重要な家臣が住んだ屋敷跡が、三つ並んでいた場所です。
中の丸に近い西側の「信濃屋敷跡」は、氏照の養家である、大石信濃守のものとされ、その東に刑部屋敷跡、東端にカゾノ屋敷と並んでいます。
三つの屋敷の東には、尾根道からの敵を防ぐための強固な空堀と土塁、引橋(有事には外せる橋)があります。
ここに屋敷を構えた家臣は、親戚筋など信頼の厚い者で、城の弱点であった尾根の守りを任されていたと考えられます。
※現地看板より

信濃屋敷

刑部屋敷

カゾノ屋敷

木橋
唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。
そのため、防御は厳重を要した。
この橋は「引き橋」だったと思われる。
橋の下の堀は大池の土手とつながり、一大防御線を考えた縄張(城の設計)になっていた。
※現地解説版より

2024/4最終訪問

周辺地図

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※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
※ 自分で出したゴミは、家に持ち帰り処理を行うようにしましょう。
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