城犬のおいど

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常陸国 駒城

2024-10-16 11:13:57 | 城館
常陸国 駒城 <コマジョウ>
別称駒館・駒楯城
城郭種別城郭
縄張り平城
築城者藤原実寛
築城年南北朝時代
廃城年不明
主な城主藤原氏
指定史跡県指定
住所茨城県下妻市黒駒
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物なし
DID・航空管制対象外・対象外

概要
ここは東西120メートル、南北180メートルにわたる駒城跡の北西部にあたります。
駒城は駒館ともいわれ、およそ670年前ここに中御門少将 藤原実寛が城主としてたてこもりました。
その頃は北畠親房らが南朝に、足利尊氏らは北朝にそれぞれの天皇をいただいたて争い、たいへん乱れたので南北朝時代といわれています。
親房らはこの地方に勢力をのばそうとして延元3年・歴応元年(1338)小田治久の小田城(つくば市小田)に拠りました。
関城(筑西市関館)の関宗祐、大宝城の下妻政泰らと共に実寛はこれに応じて城をかためました。
そこで北朝の将高師冬は山川城(結城市山川)に陣をおき、延元4年・歴応2年(1339)10月その大挙が鬼怒川を渡って攻めて来ました。
これに対し駒城の守りが堅く、激しい戦いが繰り返され、北朝側が鎌倉の鶴岡八幡宮に城が落ちるよう何回も祈願するほどでした。
しかしついに興国元年・歴応3年(1340)5月27日師冬軍の大軍の猛攻によって城は落ち、実寛は捕らえられました。
こうして南朝側の重要な拠点の一つが失われたのですが、親房が小田城にて「神皇正統記」を著す事が出来たのは、師冬の大軍をここに釘付けにして長期間戦い抜いてくれたからだといわれています。
※現地看板より

攻城記録


土塁

看板と標柱


城址碑


2024/10最終訪問

周辺地図

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