常陸国 木田余城 <キダマリジョウ> | ||
別称 | ||
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 信太氏 | |
築城者 | 不明 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 1578 | |
主な城主 | 信太氏、菅谷氏、小田氏 | |
指定史跡 | 市指定 | |
住所 | 茨城県土浦市木田余 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | あり | |
現地案内板 | あり | |
スタンプ | ||
現存建造物 | なし | |
復元建造物 | なし |
概要
木田余城は標高約2メートルの霞ヶ浦湖畔の低地に築かれた平城で、推定される本丸跡は字中条(中城)にあり、本丸の外側に濠が回っていたと思われる。
小田氏の重臣信太氏の居城であったが、永禄12年(1569)手這坂の戦いで小田氏治が佐竹・真壁氏に敗れた翌年、離反を疑われた城主信太伊勢守が氏治に謀殺され(異説あり)、その後氏治が居城とした。天正6年(1578)7月、佐竹氏配下の梶原政景が木田余城を攻略し、氏治は土浦城に移った。間もなく小田勢は木田余城を取り戻すが、9月には佐竹義重の攻撃で再度落城したと言われている。
江戸時代の17世紀中頃に、土浦城主の朽木植綱は城跡が忘れ去られるのを惜しみ、宝積寺を本丸跡に移したが、明治36年(1903)汽車の飛火で同寺は焼失、移転した。その後は水田中に畑地として名残を留めていたが、大正時代以降の耕地整理や昭和59年(1984)の常磐線電基地設置により、現在の状況となった。
なお、約100メートル西方に、かつて信太八幡境内と言われた場所があり、ここには信太範宗と後を追って自害した妻、子紀八の供養塔と伝えられる五輪塔(市指定文化財)がある。
※現地看板より
説明板
看板の前に駐車スペースあり
本丸
この先、城址碑がありますが立ち入り禁止となっています。
右に見える小屋の先に、右に曲がる細い道が大手道と思われます。
2024/8訪問
周辺地図
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※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
※ 自分で出したゴミは、家に持ち帰り処理を行うようにしましょう。
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