常陸国 玉造城 <タマツクリジョウ> | ||
別称 | 轟城 | |
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 丘城 | |
築城者 | 玉造氏 | |
築城年 | 室町時代中期 | |
廃城年 | 1591 | |
主な城主 | 玉造氏 | |
指定史跡 | なし/不明 | |
住所 | 茨城県行方市玉造甲 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | なし | |
現地案内板 | あり | |
スタンプ | ||
現存建造物 | なし | |
復元建造物 | なし |
概要
常陸大掾氏の一族、行方宗幹(景幹)の四男四郎幹政が治承年間(1177~80年)に玉造に配され玉造氏を称する。天福元年(1133年)幹政は没するが、以後、子孫が歴代の城主となる。城が築かれたのは室町中期の寛正年間(1460~65年)で、戦国末期の永禄から天正年代に再構築したものとみられている。三方を低地(かつては水田)に囲まれた要害の地で、「中館(本丸)」・「搦」の三郭から成り、空堀や土塁が今も残る。
天正19年(1591年)2月9日、城主玉造重幹が、「南方33館主」と称される行方・鹿島の諸氏族と共に、佐竹義宣に誘殺されて落城、佐竹氏の支配下に置かれ、玉造氏四百年の歴史を閉じる。
※現地看板より
攻城記録
主郭下の説明板。
主郭方面
二の郭方面
大場家住宅
寛永年間(1624~1644)に初代水戸藩主徳川頼房が視察の折の御殿とした場所。
その後も藩主や幕府の巡検使が領内視察の折の宿泊地として充てられた。
屋敷は水戸に通じる屋街道と玉造城跡の斜面に挟まれた土地にある。
玉造城とは直接関係ないが、近くにあったので寄ってみた。
2024/8訪問
周辺地図
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※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
※ 自分で出したゴミは、家に持ち帰り処理を行うようにしましょう。
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