讃岐国丸亀城 [マルガメジョウ] | ||
別称 | 亀山城・蓬莱城 | |
城郭構造 | 輪郭式平山城 | |
築城年 | 不明 | |
廃城年 | 1871年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 丸亀市一番丁 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 丸亀城天守内および資料館 | |
御城印販売場所 |
概要
丸亀城は、生駒氏が慶長2年(1597)から5年をかけて西讃岐の支配のため築城したが、一国一城令により廃城となった。
その後、生駒氏の転封により讃岐は東西に二分され、西讃の拠点として山崎氏がその城跡に、寛永20年(1643)より築城を開始した。
山崎氏絶家後は京極氏が入封し、明治維新を迎える。
天守は全国で最小ながら現存する木造天守12城のひとつであり、大手門や御殿門も現存している点は貴重である。
標高66mの自然の岩山である亀山を利用し、それを取り囲むように四方に3段の石垣を巡らせ、山下部から三の丸、二の丸、本丸へと登って行く縄張りとしている。
山上部にはかつては現存する天守を含め12の櫓とそれらを繋ぐ渡櫓があり、山下部には藩主の住む居館や大手門、庭園などがあった。
また、外堀の内側には武家屋敷を置き、大手口や搦手口には家老屋敷を配置して守りを固めていた。
また、緩やかな勾配から次第に急になり最後は反り返る「扇の勾配」といわれる高さ20mを越える見事な高石垣が見所である。
※現地看板より
大手二の門
大手一の門
見返り坂
三の丸北高石垣
丸亀城跡は標高66メートルの亀山に築かれた平山城で、山復部、三の丸には高石垣が巡っている。
特に北側の石垣は高さ20メートル以上あり、隅角部の石垣は算木積みと呼ばれる積み方で、直方体の大きな石を角石に用い、大面と小面を交互に組み合わせ、
小面の角石の横には角脇石を配することで、高く強固な石垣となっている。
丸亀城の高石垣は仰(矩)返しという技法を用い、石垣下部は緩く、上にいくほど急な勾配となり「扇の勾配」と呼ばれる美しい勾配で築かれている。
※現地看板より
三の丸東張出石垣
延寿閣別館
麻布にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸を昭和8年(1933)に移築したもので、内部は大名家の生活がしのばれるよう昔のまま保存されている。
※現地看板より
月見櫓跡
三の丸
見返り坂を登ると三の丸である。
海抜約50.5メートルの平地で、東方(左方)の眺めがすばらしい。
飯野山(讃岐富士422メートル)がそびえ、その手前に土器川が右(南)から北へ流れ、その北に青ノ山が横たわり、更にその北に遠眺するは坂出市番の州工場地帯と瀬戸大橋である。
東南隅に巽櫓の跡がある。土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓であった。月見にはよい位置であったから月見櫓とも呼ばれた。
※現地看板より
二の丸井戸
この井戸は直径が一間(1.8メートル)、深さは絵図によると36間(約65メートル)と記され、日本一深い井戸といわれている。
丸亀城で最も高いところにあり、現在も水を湛えている。
また、石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れたお殿様により、この井戸の底に入っている間に石を落とされて殺されたという伝説が残っている。
※現地看板より
二の丸隅櫓跡
本丸
天守
日本100名城スタンプ設置場所
栃の木御門跡
搦手口
丸亀市立資料館
玄関先御門
2019/5最終訪問
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