二俣城 [フタマタジョウ] | ||
別名 | 蜷原城 | |
城郭構造 | 連郭式山城 | |
築城者 | 二俣昌長 | |
築城年 | 16世紀年(年) | |
廃城年 | 1600年(慶長5年) | |
指定史跡 | 国の史跡 | |
場所 | 静岡県浜松市 地図 | |
スタンプ設置場所 | なし | |
御城印販売場所 | 天竜区観光協会 |
概要
天竜川と二俣川が合流する天然の要害に築かれた城跡です。元亀3年(1572)から天正3年(1575)のあいだ、武田信玄・勝頼と徳川家康による争奪戦が繰り広げられました。徳川家康が領有していた天正7年(1579)、織田信長の嫌疑にかけられた家康の長男、信康は、この城に幽閉され自刃しました。信康の生母である築山殿は、井伊直平の孫であり、直平の曾孫である井伊直虎とは親戚筋にあたります。
※現地看板より
二俣城は、信州や三河等へ通ずる所として物資や人の往来、又軍事面でも重要な場所でありました。
武田軍と徳川軍との攻防の末1575年徳川の支配下となりました。また、この城で家康公の嫡男信康公が1579年9月15日21歳の若さで切腹し、毎年御命日には、清瀧寺にて御供養されています。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」が放映されています。
※現地看板より
城山公園案内図
この一帯は通称「城山」と呼ばれ、園内は指定史跡「二俣城址」の遺構が残り、天竜川の景観も楽しめます。
北の丸
搦手門跡
本丸
二俣城は、天竜川と旧二俣川で三方を囲まれた天然の要害の地に築かれた山城です。
丘陵を利用し階段状に造成をして施設を配置し、本丸や二の丸、西の丸などの主要な施設が想定される場所には、土塁や石垣が構築されています。天守台の眼下には天竜川が流れ、天竜川を利用した水上交通の掌握を意識した城でもあります。
このように、二俣城は自然地形を生かした軍事的要害であったのに対し、隣接する鳥羽山城では建物の礎石や庭園遺構が確認され、迎賓機能を持つ領主の居館であったと考えられます。両城は、二つで一つの城の役割を果たす戦国時代の「別城一郭」といわれる姿や近世城郭への変遷過程を今に伝えることが高く評価され、共に国史跡に指定されました。
※現地看板より
土塁
当初、この地域の支配拠点は二俣の北部(現在の天竜区役所一帯)に築かれた笹岡城でしたが、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いを契機に、現在の地に二俣城が整備されたと考えられています(これ以前の文献資料における「二俣城」の名称は笹岡城を示すと考えられています)。二俣城は、軍事的に有利な地形や、遠江の平野部と山間部、南信地域とを結ぶ交通の要衝でもあったことから、徳川・武田両氏による激しい攻防の舞台となりました。
1572(元亀3)年の攻防の際は、武田軍が城内各所にあった徳川軍の水の手を全て断つことで二俣城を攻略したといわれています。
その後支配は徳川氏、豊臣氏と移りますが、現在残る天守台や石垣などは、豊臣氏の重臣であった堀尾氏の領有時代に構築されたと考えられています。
※現地看板より
天守台
大手門跡
二の丸
南の丸
堀切
西の丸
西の丸石垣
2024/2訪問