越前大野城 [エチゼンオオノジョウ] | ||
別名 | 亀山城 | |
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |
築城者 | 金森長近 | |
築城年 | 1575年(天正3年) | |
廃城年 | 1873年(明治6年) | |
指定史跡 | 県指定史跡 | |
場所 | 福井県大野市 地図 | |
スタンプ設置場所 | 越前大野城一階 | |
御城印販売場所 | 越前大野城一階 |
概要
越前大野城は、1576年(天正4年頃)、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、
4年の歳月をかけて築城されていた。
当時の城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、 麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないでいた。
4年の歳月をかけて築城されていた。
当時の城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、 麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないでいた。
駐車場
南登り口
案内看板
百間坂
江戸時代、大野藩の侍たちが城の本丸へ行くには、藩庁から亀山の山頂に通じる百間坂を必ず登りました。
今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。
藩庁や御殿(藩主の居館等)のあった二の丸は、いま、学びの里「めいりん」の敷地になっています。
右の小道を行けば、百間坂を通って越前大野城に行くことができます。
※現地看板より
土井利忠像
大野土井家7代目の藩主。幕末期に藩政改革に着手。
門閥を問わず、優秀な人材を登用し、在位44年の間に財政再建を成しとげたほか、4万石の小藩ながら次のような様々な事業を行いました。
藩校明倫館の開設 図書漢籍の充実
洋学館の開設 洋書購入 翻刻出版
西洋医学の採用 種痘の実施 病院の開設
西洋砲術の採用 鉄砲の製作
藩店「大野屋」を全国各地に開店
蝦夷地探検と開拓 屯田の実行
藩船大野丸の建造
※現地看板より
お福池
お福は斎藤道三の娘で織田信長の正室・濃姫の姉妹という話もあるが、定かではない。
天守台
入口
小天守
武者登り
城郭全体が梯郭式で、天守台も北東西の升形と南に帯曲輪を配置していた。
本丸は山頂を切って天守台だけを残し、武器蔵、焔硝(えんしょう)蔵等を配し、
多聞塀が526mにわたって廻らされていた。
多聞塀が526mにわたって廻らされていた。
金森長近公像
1575年(天正3年)に越前の一向一揆を収めると、その恩賞として大野郡の3分の2を与えられた。
長近は標高約249mの亀山の頂上に天守閣を築き、麓に城下町を建設した。
長近は標高約249mの亀山の頂上に天守閣を築き、麓に城下町を建設した。
城址碑
麻木櫓跡
江戸時代、この場所に「麻木櫓」という建物がありました。
櫓とは、近世の城郭に建てられた矢や鉄砲を発射するための建物のことです。
越前大野城には、4棟の櫓があったようですが、亀山の上に建てられた2階建ての櫓は、この櫓だけだったようです。城下を見下ろすことができる場所であることから、城を守る上で重要な役割を持っていたと考えられます。
※現地説明板より
2023/11最終訪問