涙目筑前速報+

詰まるところは明日を知る。なだらかな日々につまずいて
向かうところはありもせず、未来の居場所だって未定―秋田ひろむ

ゲームについてる紙媒体の取扱説明書なんて読むわけないだろ

2016-05-28 19:54:03 | ゲーム
こんな頭悪そうなタイトルから始まった今日の日記だが、こんなん絶対ファミコンやってたおじさん世代からしたら分かってねえだのゆとりだの散々言われそうだ。
まあ俺もファミコン世代のはしくれなわけだけど。
どうもちくぜんです。

ゲームの話題に「最近のゲームには説明書が無くて寂しい」というものがある。
我々の世代からしたら「ゲームに説明書はあって当然」というものだったが、時代の変遷によって説明書が無くてもチュートリアルや電子説明書でどうにかなることが多くなった。

最初から身も蓋もないことを言うと、個人的には説明書なんかなくたってどうでもいいという立場だ。
そもそも説明書はゲーム理解というより読み物的な感じで読んでいたので、ゲーム操作の理解なんてゲーム中に気付くかチュートリアルがあれば大丈夫っしょという立場なのだ。
説明書で読むところなんて、登場人物欄や開発者のメッセージとか、その程度でしかなかった。
俺は説明書の為にゲームを買うんじゃねえ。
ゲームやるためにゲーム買ってるんだ。


とは言いつつも、一部ゲームソフトにおける昔の説明書は何か変なこだわりがあったのは事実だ。
「リンダキューブ」の説明書なんか、桝田さんが「いかにこのゲームはそんじょそこらのRPGの文法を無視しているか」という事を力説していて、作り手の執念みたいなものを感じる。
もちろん、家に帰るまでの車の中で取説読んで、これから始めるゲームソフトに胸をときめかせていたのもまた事実。
新品の取説特有の匂いも大好きだ。
いきなり「紙媒体の取説なんかなくたって構わねえ」と切り捨てたが、またれよ。
あの時代の楽しさを全く知らないというわけではないのだ。
寧ろブリバリで知っていた立場だし、あの時代の良さを語らせたら数万字じゃおさまりつかないんだ。
またれよ。

それを踏まえて、やはり紙媒体の説明書という時代ではないと感じる。
そもそも開発者のこだわりを感じたきゃ自分でそのゲームの記事を追う知恵が身についたわけだ。
ネットを開けば、事前情報が出ている事なんて当たり前だ。
そこらのゲーム情報サイトに開発者メッセージだって腐るほど出ているし、当時こだわりを持って説明書に工夫をこらしていたクリエイターは、インタビューや自身のコラム等でそのゲームの魅力を伝えている。
大型のタイトルだったらアートワークやサントラなど、付加価値に力を入れることも忘れない。
そして肝心の操作説明だったりゲームシステムも、そのタイトルのオフィシャルサイトを覗けば簡単に分かる。


ここまで書いてくると、俺の中での取説の重要さはただの懐古的な要望に過ぎなくなってくる。
あとこれも言いたい事なんだけど、昔だって全部が全部取説にこだわりをもっていたわけじゃなくて、本当に一部のソフトだけだからな。
ペラッペラな内容しか書いていない取説だってそりゃあったし、ごく普通の操作説明だけの取説だって当たり前のようにあったわけだ。
アンサガとか見てみろ。あんなん狂気でしかないぞ。
発売日に買っちまった俺の気持ちにもなれってんだ。
若い子たちはあまり昔のタイトルの取説を美化しないでほしいところだよ。
我々の世代は取説が当たり前の時代だっただけで、その中でも読み物としてこだわりのある取説が一部あって、それは面白かったよねって程度で済んじゃう話題なんだよ。

そう思えば思うほど、こんな情報を簡単に仕入れることが出来るご時勢で、「紙媒体の取説を入れろ!」と騒ぐ連中が疑わしくなってくる。特にネット界隈。
「正直そこに文句入れるほどじゃなくねえ・・・?」という事を言いたくなるが、言ったら言ったで偏屈な懐古おじさん達に袋叩きにされるのが昨今のネットコミュニケーションにおける非常に迷惑極まりないテンプレートだ。
テンプレートの何割かはただ騒いで場を荒らしたい中学生か同レベルの思考回路を持った愉快犯だ。
懐古主義の老害ならさっさと時代に適応するか死ねとしか言いようがない。
愉快犯なら問答無用で死ね。自動的にWindows10にアップデートされて死ね。
金銭的な事情や住んでる環境でネットを使いたくても使えない奴の場合は、お前ゲーム以前にやることがあるだろという話になる。


結論としては、ゲームにおける紙媒体の取扱説明書は、俺の中ではただの懐古的なものでしかないという事だ。
あればあったで「ああ、懐かしいねえ」くらいなもんで、無ければ無いでチュートリアルなりゲーム内でシステムは理解していくだろう。
あの時代の良さを知っているからこそ寂しさは0ではない。
だが、だからといってなければならないものでもない。
取説はあくまで付加価値的なものであって、注力すべきはゲームの面白さである操作感・シナリオ・演出だと思っている。
無かったからといってゲームから離れる理由にはならない。
個人的にはこの手の考えが主流だと思うんだけど、数字を取ったわけでもないので確信は持てない。
ただまあ、「紙の取説に戻せ!」とか騒いでるのはノイジーマイノリティでしかなくて、何か迷惑な人たちだなくらいに思っている。

貴方の近くでこの類の話題で騒いでいる奴がいたら、そいつは大概面倒くさい奴なので、早めに会話を終わらせてその場を立ち去った方が良い。
ネット上で騒いでいるのを見かけたら、十中八九アフィの養分になるので、「どうせアクセス目的でどっかのアフィカスがこんな話題持ち上げてんだろ」くらいに思っておいた方が良い。
いずれにせよ、この手の連中と関わって得られるものは、恐らく何もない。
俺の場合は全くなかった。

結局のところ、ただの時代の流れだ。
自分もゲームもその時間分の年を取ったわけだ。
そこに必要以上に感傷的になる必要もないし、それを振りまかれるのは俺にとっては迷惑でしかない。
それよりも、あの頃のファミコンゲームが、たった数十年でここまで進化したことの方が凄いし、素晴らしい事だ。
まあ、なんだ。ゲームやろうぜ。

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